伊達慶邦 (だて よしくに) | げむおた街道をゆく

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伊達 慶邦(だて よしくに)は、陸奥仙台藩の第13代藩主。伊達氏第29代当主。第11代藩主・伊達斉義の次男。



ー 経歴 -
文政8年9月6日(1825年10月17日)に出生した。文政10年(1827年)に斉義が死去した際、その子である穣三郎(慶邦)は幼少で御目見が済んでおらず、後継者としての条件を満たしていないために後継者問題が起こった。幕閣(老中の水野忠成とされる)より嫡母と徳川家斉の子を結婚させて藩主とする提案を持ちかけられたが、大條道直ら藩の重臣がこれを断り、一門の登米伊達氏の総次郎(斉邦)を中継ぎに立てる。
天保8年(1837年)に、第12代藩主となっていた斉邦が姉と婚礼を挙げると同時に、その養嗣子となって諱を寿村(ひさむら)と称した。翌天保9(1838年)には将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶寿(よしひさ)に改名。天保12年(1841年)に斉邦が25歳で死去すると、伊達宗家の家督および仙台藩主を継いで従四位少将に叙任され、陸奥守に任官される(嘉永4年(1851年)に従四位下中将に、安政6年(1859年)には正四位下中将に昇進)。また、藩主就任後からまもない天保14年(1843年)には亡き斉邦の一字を取って慶邦に改名している。
19世紀初頭から、仙台藩は幕府から蝦夷地(北海道)の警衛を命じられていた。これは陸奥会津藩や出羽庄内藩などの東北諸藩も同じであったが、特に仙台藩の担当範囲は最も広く、択捉島・国後島などの千島列島にまで及び、慶邦の代には全蝦夷地の3分1に程度まで拡大していた。この原野の警衛に要する費用は莫大で藩財政に重くのしかかり、慶邦は警衛地の一部を仙台藩領に組み込むことを幕府に求め、許されている。
慶応4年(1868年)、仙台藩はいわゆる奥羽越列藩同盟の盟主として錦の御旗を掲げる薩長軍と戦ったが敗れ降伏。仙台藩は全領土を没収され、慶邦は養子の伊達宗敦と共に江戸へ連行され、死一等を減じられて謹慎閉門を申し渡された。同年末、四男の亀三郎(宗基)が、仙台藩28万石に減封された上で、家督相続は許された。
明治7年(1874年)7月12日死去。享年50。駒込の西福寺に葬られた。葬儀はいわゆる神葬祭によって行われたため法号は無し。明治23年(1890年)4月、伊達家の祖廟がある仙台の大年寺山に改葬された。


以上、Wikiより。



伊達慶邦