真田幸村 (さなだ ゆきむら) | げむおた街道をゆく

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真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。
後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や講談や小説などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。



ー 生涯 -

出生から真田氏の自立
永禄10年(1567年)(一説には永禄13年(1570年))、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。
幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立した大名として自立する。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えている。天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。[5]
豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認のための別の史料による裏付けは困難でもある。なお、年月不詳だが、伏見に滞在していた頃に出したとみられる信繁の書状が残っている[6]。

関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。
東軍のうち、徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁(幸村)は居城上田城に籠り、秀忠の大軍を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。
また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。
三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千の兵の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるにとどまった。
蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った[7]。

大坂入城
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った[8]。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った[9]。
大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)[10]。

大坂冬の陣
慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる[11]。
しかし大坂城への籠城策が決定すると、信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えた。徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至った。
この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなる[12](真田丸の戦い)。
なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた[13]。
冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している [14] 。信繁がこれを断ると、家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという[15]。

大坂夏の陣
「天王寺・岡山の戦い」も参照
慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。
ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた[16]。
ただし豊臣方はここまでに後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。真田信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣あるのみと直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた(5月7日)[17]。
5月7日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている[18]。
しかし毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。[要出典]これを受けて信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」とつぶやき[19] 、真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った[20]。中でも信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破し[21]、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ[22]、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。
ちなみに、家康の本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる[23]。
しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていた[24][25]ところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた。[26]。享年49。



ー 人物 -

旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。
信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。
家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた。夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大作大阪夏の陣屏風を描かせ、ほぼ中央に真田信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と、信繁を絶賛し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍をも賞賛した。幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった。徳川に敵対したにも関わらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤摩化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。
家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通している(一説には叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。
信繁の忠臣説には異を唱える者もある。
信繁と徳川氏は「不倶戴天の敵」であったといわれるが、これは後世の俗書や小説等による影響である。
関ヶ原に西軍として参戦して改易され、復活を遂げた数少ない大名である立花宗茂や丹羽長重も、本領に復帰する前に与えられた所領は、宗茂が陸奥棚倉1万石、長重が常陸古渡1万石であった。宗茂や長重より知名度も実績も劣る信繁が信州40万石もの大封を与えられる可能性は低く、信繁自身も真に受けなかったと推察される。
家康から提示された、豊臣氏を裏切るための「破格の条件」を断ったのが豊臣家への忠誠のためであったか否かは実証困難である。逆に信繁の兄や叔父らが徳川家の臣下であるために「信繁は徳川方の間者である」という豊臣家譜代からの誹謗中傷もあったという。
既に触れたように「幸村」の名は後世に流布したもので、兄・信之が、信繁の人柄を語る『幸村君伝記』の記述において、信之が幸村名を使った記述となっていることから、少なくとも名前のみは後世の取り込みと判断できる。後世の真田関係の資料は信繁を「幸村」としていたり、幕府・諸大名家の記録類でも「幸村」が使われていたりする。
真田信繁の方が実は長男で、信之が次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説があり、源三郎、源二郎の順序入れ替わりの謎もその傍証の一つとされる。しかし、父の昌幸(幼名:源五郎)とその弟である信尹(幼名:源次郎)も幼名は順番になっていないことから、この異説は憶測の域を出ていない。
信繁の愛槍は「十文字槍」というもので、両鎌槍を強化して作られた細めの槍であった。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤揃えに恥じぬ名槍だった。刀は正宗、脇差しは貞宗。徳川に仇なす妖刀として有名な村正を所持していたという説もあるが、こちらは資料そのものの信憑性が疑問視されている[11]。
徳川家康はあの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物であるとまで評した[要出典]。
大坂の陣において後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とある事から、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)な容姿をした小男であったと想像される。



ー 評価 -

島津忠恒
「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」[27]
細川忠興
「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」[28]
『大坂御陣覚書』
「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」
『翁草』
「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」
『北川覚書』
「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候。」
『元和先鋒録』
「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」
『山下秘録』
「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」
『言緒卿記』
「五月七日、癸丑、天晴。大坂落城す。天王寺にて、真田、たびたび武辺、その後、討死なり」
こうして、真田信繁(幸村)の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われる[29]。


以上、Wikiより。



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