佐武義昌 (さたけ よしまさ) | げむおた街道をゆく

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佐武 義昌(さたけ よしまさ、天文7年(1538年) - 元和6年(1620年))は、紀伊国の豪族で雑賀衆の一人。佐竹允昌の子。兄に佐武源大夫。通称伊賀守、源左衛門、慶誓。



ー 生涯 -
1549年(天文18年)、12歳の時に鉄砲の訓練を受け、同年に湊氏と岡氏の戦いで初陣を果たした。1555年(弘治元年)、18歳の頃には根来寺へ入山。福宝院の行人となって修行する。 同年、根来の蓮花谷と菩提谷が争うと福宝院は蓮花谷に属していたため、 義昌も合戦に参加した。その後、傭兵稼業に入った。
一時、四国へ渡って長宗我部氏の宿敵である本山茂辰に田畑70町歩で仕える。仕える際に長宗我部、本山両氏から競って勧誘されるが、本山氏が先に声をかけたので本山氏に仕える。1560年5月28日(永禄3年)、戸の本の戦いでは本山軍として長宗我部国親・元親親子と戦うも、本山軍が敗れ、義昌も敗走し、雑賀に戻った。
1570年9月12日(元亀元年)から勃発した石山合戦では鈴木重秀と共に織田信長と戦い、信長による紀州征伐でも活躍した。
豊臣秀吉による紀州征伐では、義昌は的場昌長(源四郎)と共に大将として奮戦し、雑賀城を守った。雑賀衆・根来衆が滅亡した後も、彼は最後まで抵抗を見せたと言う。その後、義昌は紀伊・熊野の山中に逃れたが、征伐後に紀伊半島に赴任した浅野幸長に1,000石を禄せられて仕え、紀伊の町の再興や寺院の再建に尽力した。
1613年(慶長18年)8月25日、幸長が38歳で亡くなると、弟の長晟に仕える。1619年7月(元和5年)、安芸広島42万石に加増・移封されるとそれに従う。
1620年(元和6年)、死去。享年83。



ー 人物・逸話 -
最初、苗字は「佐竹」であったが、 1570年に勃発した元亀年間の合戦で戦功を挙げたことによって、足利義昭から佐武姓に変えるよう命じられた。
鉄砲の他に弓術にも長けており、佐武家は代々弓術の名手を輩出し、義昌や子孫の佐竹義和も弓術にまつわる合戦の逸話が多数残っている。
前述の初陣の戦いで、親戚の岡氏に見舞いに向かう際に、 湊家の兵を見つけ、すぐさま山に登って、弓矢で湊勢を攻撃したという。
前述の蓮花谷と菩提谷の戦いで、矢で踝を射抜かれ、鏃がそのまま体内残ってしまった話がある。
義昌は至近距離から鉄砲を撃つという基本に従い、約十間の距離で撃つようにしていた。


以上、Wikiより。



佐武義昌