佐久間 盛重[1](さくま もりしげ、生年不詳 - 永禄3年5月18日(1560年6月11日))は、戦国時代の武将。大学允、大学助。織田氏の家臣。
ー 概略 -
五器所城主。はじめ、信長の弟・信行(信勝)付きの家老で、天文20年(1551年)の信秀の葬儀では、信行に供奉している(『信長公記』)。
弘治2年(1556年)、信長と信行と対立し家臣の多くが信行方に走った時には、盛重は信行付きの家老という立場ながら同族の佐久間信盛らとともに信長方に味方した。信長が信行方の柴田勝家や林秀貞と合戦(稲生の戦い)を行った際は名塚砦を堅持した。その際、信行方の橋本十蔵を討ち取った。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、その前哨戦において丸根砦を守備し、近隣の鷲津砦と連携して今川方の尾張侵攻の拠点である大高城を牽制する任を担ったが、大高城救援のため出陣した今川方の部将・松平元康(後の徳川家康)勢の攻撃により丸根砦は陥落、盛重は戦死した。
盛重の子、盛昭は姓を「佐久間」から「奥山」へ変え、丹羽長秀・豊臣秀吉に仕えた。 娘は新庄直頼・佐久間盛政に嫁いだという(『寛政重修諸家譜』)。
以上、Wikiより。