駒井 重勝(こまい しげかつ、永禄11年(1568年) - 寛永12年(1635年)[1])は、安土桃山時代の豊臣政権の大名。文筆に優れ、駒井自身の生きた時代の貴重な記録「駒井日記」の著者である。駒井秀勝の子。従五位下、中務少輔。八右衛門。
六角氏に仕えていたが、織田信長により六角氏が滅ぼされたのち、豊臣秀吉に召し出された。大津奉行、草津、矢橋代官を歴任。政治的手腕を秀吉に買われ、豊臣秀次に附けられた。秀次の蔵入地の管理などを司り、また右筆も務める。天正19年(1591年)、豊臣姓を下賜された。
文禄2年(1593年)、秀吉の直臣となる。そのため、文禄4年に秀次事件に連座することはなかった。その頃には豊後国大野、直入、大分、海士辺郡内2万5000石を領し、その後、伊勢国安芸郡徳田村、横地村1300石も加増された。越前国の検地奉行なども務める。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城の戦いに従軍したため、戦後失領し浪人となる。その後、加賀藩の前田利長に仕えた。
以上、Wikiより。