河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。
ー 略歴 -
後述するが、村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。
先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。宍戸元秀の子を後継者とし、養子に迎え、河野通軌と名乗らせた。
ー 出生 -
これまで通直の実父は通吉と言われてきたが、実母にあたる宍戸隆家の娘についての検証から、村上通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする説がある。この説に拠れば、この血縁関係もあり、四国攻め以前から通直政権は毛利氏、小早川氏の強い影響力により支えられていたとされ、史料も確認されつつある。
以上、Wikiより。