吉川経家 (きっかわ つねいえ) | げむおた街道をゆく

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吉川 経家(きっかわ つねいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。吉川経安の嫡男。本姓は藤原氏。石見吉川氏当主。



ー 生涯 -

毛利氏の石見支配の重鎮の子
天文16年(1547年) 、毛利氏の家臣で石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男として誕生。
永禄4年(1561年)、尼子氏に寝返った石見国人・福屋隆兼らが率いる5,000人に居城の福光城を攻められた際に、若年ながら父・経安とともこれを迎撃した。その後の詳細は不明であるが、父とともに石見国の重鎮として国内の安定化に努めた。
天正9年(1581年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国討伐軍が因幡国まで侵攻した。毛利氏に従属していた鳥取城主・山名豊国は織田氏に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続に追放された。森下らは吉川元春に支援を要請した。元春はこの要請を受け入れ、家臣の牛尾元貞を派遣するも戦闘で負傷したため(討死説もある)、吉川一門で文武両道に優れた経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。この時、経家は自らの首桶を用意しており、その決死の覚悟を窺うことができる。
なお、異説では山名豊国は吉川経家が入城した時にも在城しており、吉川経家や鳥取城の情報を逐一織田方に密告しており、それが毛利氏に発覚したために逃亡したともいわれている。

鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」
同年2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかなかった。これは羽柴秀吉の策略により因幡国の兵糧は秀吉の密命によって潜入した若狭の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、攻撃を開始した。秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」という地獄絵図となった[註 1]。それでも4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。
10月25日早朝、経家は家臣と暇乞いの盃を交わし、具足櫃に腰を掛けて、脇差に紙を中巻きにすると、それを見守る家臣の座中に目をやって、大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言ってから切腹した[1]。介錯は静間某という者が務めた[1]。
自害に先立って父や子供らに遺書を残し、自分の心情を記している(その遺言状は5通中3通が現存している)。また、自害の際には小姓の山県長茂が付き従っており、その自害の模様の詳細を記述して、後世に伝えている。
辞世の句は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」。
自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わる[1]。その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られた。
墓所は城内の青木局と呼ばれる場所に建てられたが、慶長6年(1601年)に池田長吉が入城して城を改修した際に、城外の円護寺五反田に移された。平成5年(1993年)、鳥取城正面入口に経家の銅像が建立された。


以上、Wikiより。



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