小山田信有 (おやまだ のぶあり) | げむおた街道をゆく

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小山田 信有(おやまだ のぶあり、1519年?(生年不詳) - 天文21年1月23日(1552年2月17日))は、戦国時代の武将。甲斐国東部の郡内地方の有力国人である小山田氏当主。出羽守を称した。
父は越中守を称した小山田信有、母は甲斐国守護武田信虎の妹か[1]。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂の父[2]。桓武平氏。秩父党の末裔。法名は長生寺殿契山存心大禅定門[3]。



ー 生涯 -
戦国期の甲斐国では国中地方において守護武田氏と有力国人衆の間で抗争が発生しており、郡内領主の小山田氏も守護武田信虎や領国と接する駿河国の今川氏、相模国の後北条氏と争いを繰り広げていたが、信有の父にあたる越中守信有期の永正7年(1510年)には武田氏との和睦が成立し、「武田源氏一統系図」などに武田氏の系図類によれば、武田氏と和睦した越中守信有は武田氏と姻戚関係を結び、出羽守信有は武田氏の女子を母として誕生している[4]。
越中守信有期には郡内支配の拠点をそれまでの中津森館から谷村館へと移転し、武田家臣団のうち一門衆として臣従した越中守信有は天文2年(1533年)に甲府に屋敷を与えられ移住している[5]。
天文9年(1540年)には嫡男弥三郎信有が誕生。同年、主君武田家でも武田晴信が家督を継承。出羽守信有は弟信義とともに引き続き晴信に仕える。翌天文10年には父・越中守信有が死去。嫡男となっていた兄小山田虎親も同年に死去したため、代わって家督を継いだ。
出羽守信有は晴信(信玄)期に本格化する信濃侵攻においては活動が見られ、天文14年(1545年)に諏訪攻めの延長として行われている伊那郡箕輪城(長野県箕輪町)攻めにおいては、城主藤沢頼親の降伏に際して勝沼信元、穴山信友ら親類衆とともに仲介を務めており、天文16年(1547年)8月の佐久郡侵攻においては、志賀城主笠原清繁の夫人を側室として与えられ、駒橋へ連れ帰ったという[6]。また、天文17年2月の上田原の戦いにおいても従軍しており、天文19年(1550年)8月に武田勢は小県郡戸石城の村上義清を攻めるが攻城は難航し、10月1日には撤退するところを村上勢に追撃され敗退した(砥石崩れ)。信有はこの合戦において負傷、家臣らも討死しており、翌天文20年の筑摩郡小笠原攻めにおいて信有は病床にあり嫡子弥三郎が小山田勢を率いている。信有自身は天文21年(1552年)に死去している。
出羽守信有期には無年号文書を含む8通の文書が現存している。小山田氏については越中守信有期の発給文書が現存しておらず、天文11年10月16日付小山田信有判物は小山田氏最古の発給文書となっており、内容は諸役・棟別免許や過所など。出羽守信有文書には花押と方形単廊朱印が使用されており、以来この方式は信茂期に至るまで継承されている。
また、小山田氏は越中守信有期に武田氏と和睦し、享禄3年(1530年)には居館の谷村移転が行われており、以来小山田氏は国中における有力国人勢との戦いにも動員され郡内領への経済的圧力を加えられるなど武田氏への従属を強めているが、秋山敬は「勝山記」享禄5年条の解釈から越中守信有の没年が同年であるとし、谷村館への居館移転は出羽守信有の家督相続の時期にあたり、郡内への圧力を強める武田氏との政治情勢が背景にあった可能性を指摘している[7]。
山梨県都留市下谷の長生寺に伝来する小山田信有画像は従来越中守信有に比定されていたが、高野山過去帳による出羽守り信有の法名と修補銘に「契山存心」と記されていることから、画像は出羽守信有のものと考えられている。


以上、Wikiより。



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