織田信忠 (おだ のぶただ) | げむおた街道をゆく

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織田 信忠(おだ のぶただ)は、安土桃山時代の武将・大名。織田信長の嫡男で、信長の生前に家督を譲られた。



ー 生涯 -

少年期
弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。実母は、久庵慶珠[1][2]。乳母は慈徳院。なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃において甲斐の武田領国と接し、東美濃国衆遠山氏の娘が信長養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄五女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、武田・織田間の和睦は成立していない。
元亀3年(1572年)1月に元服したと「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付「兼見卿記」、また同年6月18日付の「朝河文書」でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれており、諱の「信重」の名乗りが確認できるのは、同年7月が初見である。(大県神社文書)「信長公記」でも、同年8月12日付けの江北攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化しており、若干遅めだが17歳~19歳頃が元服の時期と推察される。以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦する。

信長の後継者
天正3年(1574年)5月の長篠の戦いに勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく事となる。
天正4年(1576年)、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、岐阜城主となった。同年に 正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。同年11月28日、信長より家督を譲られ、尾張国・美濃国と岐阜城を譲渡された(信長公記)。
天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により従三位・左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将を率いるようになる。
天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。
天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がる。

甲州征伐
天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。
信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられた事から、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす事となる。

本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害した。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたという[3]。享年26[3]。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。
また、その奮戦の具体的な内容だが、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい[註 3]。また、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという。信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したという(『士林泝洄』3)。



ー 人物・逸話・出生 -

人物評価
かつては徳川史観から来た松平信康との比較で暗愚な凡将との評価が定評だったが、現在では、信長には及ばないものの後継者としては十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流になっている。信忠を暗愚とする根拠は、高柳光寿の著書『青史端紅』において松平信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて、家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、嫡子の将来を危惧し信康を除いておいたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、その結果、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。そのため近年、信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘された。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在主流の評価に移ってきている。いずれにしても人物評が定着するのはまだ先のことであろう。
本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった[註 4]。歴史に「もし」は許されないが、もし信忠が生きていたら織田政権は崩壊せず存続したとする見解もある[3]。なお、当代記によれば、光秀襲撃の際に側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいたが「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」と述べたという。これが事実だとすれば、この決断は誤りで余りに信忠は潔すぎたといえる[3]が、この当代記に記載された逸話の信憑性は不確かである。

逸話
出生した時、顔が奇妙であるということから、信長より奇妙丸という幼名を与えられたという。幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの厚遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、闘いを学んでいた。父・信長が足利義昭より尾張守護の斯波家の家督を与えられた折に、自らは辞し息子信忠に斯波家を継承させたともいわれる。
天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際、織田家一門の中における序列は第1位であった。また、信長存命中は形式的ながらも家督を譲られており、父がかつて礎としていた尾張と美濃の統治を任されていた。
『名将富鉱録』では、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されている。ただし甲州征伐で高遠城を落とした際、信長からその働きを賞賛され、3月26日に「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる」(『信長公記』巻15)と述べられたという[3]。高遠城に攻め入る際に、信長に武田氏の深追いは避けるよう託けされていたが、現地での情勢を見た信忠はこの命を破り、深く攻め入った[3]。結果、最終的に武田氏を滅亡に追いやった。このことで信長は信忠の武才を認めたという。
父に忠実だったイメージが強いが、播磨三木城攻めの時には督戦に来た信長に作戦をめぐって抗弁した。また「人間50年」で有名な『敦盛』など、幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言を異常なほどに好んだ。徳川家康を通じ、稀少であった世阿弥の著作を入手したりもしている。また、伊勢松島で群集を前に能を演じたとの記録もあり(勢州軍記)、信忠の能の腕は「手前見事」と評されるほどの腕前だった(『当代記』巻2)。ただし信長は武将たる者が能を好む事を嫌い、「およそ舞楽は金銀の無駄であり、家業を忘れ、国が乱れる本である」と述べて天正8年(1580年)に信忠から能道具を取り上げて謹慎させた(『勢州軍記』巻下)。
『三河物語』によると、本能寺で異変に気づいた信長の最初の言葉は「上之助がべつしんか(城介が別心か=信忠(城介は信忠の前官位)の謀反か)」であったとされる。ただし本能寺の変の際、著者の大久保忠教は京都にいなかったため、どこまで信憑性があるか疑問がもたれる[3]。

出生
出生については、『武功夜話』や『寛政重修諸家譜』により、織田信雄と徳川信康正妻の徳姫の母・生駒吉乃を実母とし弘治3年(1557年)に生まれたとされてきたが、近年では多くの矛盾が指摘されており、結論が出ていない。
出生年について
『武功夜話』によると、弘治元年(1555年)正月に尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で信忠が生まれたとあるが、生駒吉乃の亡夫(土田弥平次)の討ち死には弘治2年(1556年)9月でありこの記事には矛盾がある[2]。
『寛政重修諸家譜』では、弘治3年(1557年)に母・吉乃より清洲城で信忠が生まれたとされる。しかし永禄元年(1558年)3月に信雄が生まれており、例え寡婦となった直後に信長が見初めたとしても、弘治2年9月から永禄元年3月の18か月間で2人の子供が生まれるという矛盾が生じる[註 5]。
実母について
寛文年間(1661年~1672年)に再興された尾張久昌寺にある吉乃の墓石(元禄~享保の造立)には、正面に「久庵桂昌大禅定尼」、背面に「中将信忠卿・内大臣信雄公・徳川信康妻号星見院、右三子母堂、」とあり[2]、信忠の母「久庵慶珠」と似ている。しかし、『久昌寺縁由』には「巳後信雄公為慈母報恩、訴信長公、寄付於寺領」とあり、嫡男の信忠より先に亡くなった久庵慶昌の為の寄進が次男の信雄の名で出されているという矛盾がある。
天正5年(1577年)6月の崇福寺宛信忠書状には、「亡母久庵慶珠の位牌所とするので、難くせをつけたり諸税を課すことは禁止する」と書かれており[2]、美濃崇福寺に縁があって天正5年頃が年忌にあたる女性が、信忠の実母と考えられる。例えば、雪渓宗梅大禅定尼(甲斐恵林寺における戒名:天正元年(1573年)12月25日没)[2]、久庵桂昌大禅定尼(吉乃:尾張久昌寺における戒名:永禄9年(1566年)5月13日没)等が挙げられる。


以上、Wikiより。



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