小笠原長時 (おがさわら ながとき) | げむおた街道をゆく

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小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。



ー 生涯 -
大永6年(1526年)11月5日、13歳で元服する。家督を継いだのは天文10年(1541年)、父長棟が出家したときと思われる。この頃から当主として小笠原一族を率いている(長棟の死去は天文11年(1542年))。
信濃隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である守護武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月17日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城(辰野町)において武田方に対抗する(「小平物語」)。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月1日には武田家臣板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している(『高白斎記』)。
武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の有力国衆である村上義清と対立する。天文17年(1548年)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し(『高白斎記』『勝山記』)、長時は同年4月に村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻する(「神使御頭之日記」)。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い(「神使御頭之日記」)、6月19日に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。
天文19年(1550年)7月15日には本拠の林城も失い、信濃小笠原氏は没落した(『高白斎記』)。同年には同族である京都小笠原氏の小笠原稙盛(秀清の父)を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも(「二木家記」)あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが(「笠系体系」)、以後の正確な動向は不明。
駿河や伊勢を経て[1]、弘治元年(1555年)には同族の摂津国芥川城主三好長慶を頼って上洛し[2]、上方に滞在している。
信濃では村上義清ら北信豪族が越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・上杉間の川中島の戦いが繰り広げられており、永禄元年には甲越和睦の一環として武田晴信が信濃守護に補任されているが晴信は和睦後も軍事行動を続け、将軍義輝は景虎への信濃介入を認めている。永禄2年(1559年)には長慶の仲介で将軍義輝と対面しており(『伊勢貞助記』)、義輝は上杉謙信に対して長時の信濃復帰への助力を命じている[3]。
永禄5年(1562年)になり、長時と貞慶は先祖伝来の小笠原流弓馬術礼法の伝統を絶やさないため、同族である赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図、記録類を譲渡し、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味するものである。つまりこの時、長時の小笠原総領家と小笠原貞経による弓馬礼法の家が分離した。
永禄7年(1564年)には三好長慶が病死し、長時はしばらくして上杉氏のもとへ移っている[4]。
天正6年(1578年)の謙信死後は越後を離れた。天正8年(1581年)には織田信長に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用される。信長の京都御馬揃えにも参加した。後、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられる。盛氏の下で長時は厚遇され、また軍師として戦略面で盛氏の支援も担当したという[5]。
天正11年(1583年)2月25日、会津で死去。享年70。この前年の天正10年(1582年)に武田氏が織田信長に滅ぼされ、蘆名家には同行せず織田家に残り信長に仕えていた三男の小笠原貞慶が信濃に所領を与えられている。



ー 死因について -
その死因について、家臣に殺害されたと伝える史料が多数ある。一般の史料では、その死については「自然死のように扱われている」[6]が、林哲からそうした記述は事実ではない、つまり事実としては長時の死因は家臣による殺害であると指摘されている[7]。
長時の死因を斬殺とする史料によれば、長時は蘆名四天王の一人、富田氏実の邸宅で酒宴を催していた。その時、長時が家臣の坂西勝三郎の妻にセクシャルハラスメントまがいのことをした。それに激怒した坂西が抜刀し、長時とその妻・娘を斬り殺したという[8]。坂西はその後逃走を図るが、星安芸守と日出山詮次に殺された[9]。
坂西勝三郎の行動については、酒に酩酊して拡大解釈・勘違いをして長時一家を殺した可能性もあると指摘されている[10]。
現在では、殺害されたという見解が定説となっている。会津若松市による郷土の人物紹介でも「家臣に殺害された」と表記している他[11]、「国史大辞典」、「朝日日本歴史人物事典」も、長時の死因を家臣による殺害としている[12]。


以上、Wikiより。



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