小笠原貞種 (おがさわら さだたね) | げむおた街道をゆく

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小笠原 洞雪斎(おがさわら どうせつさい、? - 天正10年8月30日[1])は、戦国時代の武将。洞雪斎玄也と称し、諱は貞種か。通称孫次郎。信濃国守護小笠原長時の弟で、長時の子貞慶の叔父に当たる。母は浦野弾正忠の娘。



ー 生涯 -
信濃国林城に生まれる。戦国期に信濃守護小笠原氏は甲斐の武田晴信(信玄)の信濃侵攻に際して没落する。洞雪斎も兄の長時や甥の貞慶とともに信濃を追われ京都へ亡命する。その後は越後国の長尾景虎(上杉謙信)の後援を得て武田氏に対抗した。
天正10年(1582年)の本能寺の変・天正壬午の乱に際して越後の上杉景勝は空白地域となった北信地域へ進出する。洞雪斎は景勝に擁立され、筑摩郡(信濃府中)の小笠原旧臣や、安曇郡の仁科氏遺臣の勢力を結集し、織田信長から両郡を安堵されていた木曾義昌の追放を画策した。洞雪斎の擁立に際しては、旧小笠原家臣のニ木氏一族が仲介したという。また武田氏に属していた大日方一族が貞慶方と洞雪斎方とに分かたれたと言われる。
景勝は洞雪斎に家臣の梶田[2]・八代[3]の両名200騎余を附属させ、木曾義昌を放逐して深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎が深志に帰還した時期は同年6月のこととされ、7月初旬までに入城していたと考えられている。筑摩・安曇両郡の在地領主は義昌の支配を嫌い洞雪斎に協力したが、深志城奪還後の実権は梶田・屋代両名が握っていたため、洞雪斎の求心力を低下したという。
こうした状況のなかで小笠原旧臣は三河岡崎において徳川家康の後援を受けていた貞慶を擁立し、洞雪斎は貞慶勢の北上により深志城を奪われ、上杉領へ退去した。


以上、Wikiより。



小笠原貞種