大村喜前 (おおむら よしさき) | げむおた街道をゆく

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大村 喜前(おおむら よしあき、永禄12年(1569年) - 元和2年8月8日(1616年9月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下丹後守。嘉前とも表記される。



ー 経歴 -
永禄12年(1569年)、キリシタン大名大村純忠の嫡男として誕生。豊臣秀吉の九州征伐では病床の父に代わって、秀吉の軍門に降り、所領を安堵された。1587年、父の死で家督を相続。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役にも出陣した。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜されている[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、松浦鎮信らと一緒に、東軍に就いたために所領を安堵された。
喜前もドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンであったが、バテレン追放令を受けて領内から宣教師を追放して、朝鮮出兵以来、領内に禁制を布いていた。彼自身は個人的信仰については明言していなかったが、熱狂的な日蓮宗徒であった肥後の大名加藤清正の薦めもあって、あるいは長崎は没収されて天領とされるがこれがジョアン・ロドリゲスの策謀ではないかと疑ったとか、日本人司祭トマス荒木が宣教師は外国侵略の尖兵だなどと讒言して嫌悪するようになったなど、理由には諸説あるものの、慶長7年(1602年)、ついに公然とキリスト教を捨てて棄教して日蓮宗に改宗した。それに伴って『大村家記』で邪教と名指しされるキリスト教を領内から駆逐すべくキリシタンの厳しい弾圧を始めた[3]。これには妹松東院や純頼(=当時はキリシタン)は反対したが、後には幕府の禁制となったため従うほかなかった。
慶長19年(1614年)、幕府は禁教令を出した後で本多正純を大村に派遣して状況確認させているが、その際、喜前は事情通として説明役を務めた[1]。元和2年(1616年)、迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺された。
なお、天正少年使節の副使・千々石ミゲルは従兄弟にあたるが、彼が棄教したのちも迫害を加えたという話がある[4]。


以上、Wikiより。



大村喜前