伊東祐安 (いとう すけやす) | げむおた街道をゆく

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伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊東氏の家臣。伊東祐武の次男。加賀守。



ー 生涯 -
天文2年(1533年)、父の祐武は伊東祐充死後の家督争いに敗れ、自刃に追い込まれた。祐武の子達は許されたようで、祐安は一門の武将として伊東義祐に仕えた。飫肥攻めでの活躍をはじめ、天文18年(1549年)の堰ノ尾の戦い、永禄9年(1567年)の耳田の戦いが記録に残っている。
永禄11年(1568年)、伊東氏は真幸院の飯野地区攻略のため、島津義弘が菱刈氏攻略している間に不在の飯野城攻めの大将として出陣した。しかし、義弘に気付かれたため睨み合いとなり、桶平城を築いて佐土原遠江守を城代として残すも成果は得られず、主君である伊東義益の急死もあり撤退する。また元亀2年(1571年)頃、祐安は三ツ山の内木場城を守っていたようである。
その後、元亀3年(1572年)に今度は飯野城の先の加久藤城攻略のために兵3000を伴い出陣。伊東軍は緒戦では数の上で優勢であったが、兵の疲れが見られ、木崎原に引き上げてきたところを寡兵の島津軍に挟撃され総崩れになった(木崎原の戦い)。祐安は敗走する伊東勢のしんがりを務めたが、子の伊東祐次(源四郎)の戦死を知ると、敵の大将・島津義弘へ仇討つため引き返し、村尾重侯の被官である二階堂四郎左衛門に脇下を射抜かれ戦死したという。


以上、Wikiより。



伊東祐安