石川数正 (いしかわ かずまさ) | げむおた街道をゆく

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石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
酒井忠次と共に徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。信濃松本藩の初代藩主とすることが通説となっている(『三百藩藩主人名事典』)。



ー 生涯 -

家康の懐刀
天文2年(1533年)、石川康正の子として三河国で生まれる。
徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が討たれて松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室築山殿を取り戻した。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍した。
永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。しかし石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継いだ。これは家成が家康の従兄妹にあたるためでもある。しかし家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。信康が元服するとその後見人となった。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となった。
また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。
天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされる(この説は後に数正が秀吉方に与したという結果論から作られた説とも)。

謎の出奔~豊臣家臣として
ところが、天正13年(1585年)11月13日、突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡した[1]。理由は謎であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」など諸説入り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。この改革に尽力したのが、織田・徳川連合軍によって武田家が滅亡した際に、家康が信長による武田の残党狩りから匿った武田の遺臣達である(『駿河土産』)。
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。この時、出雲守吉輝と改名したとも伝わる。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本(領地は筑摩郡と安曇郡[2])10万石に加増移封された[2]。なお、松本の石高に関しては従来の8万石、10万石の2説がある[2]。数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構のルートを掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力した[3]。
文禄2年(1593年)、死去。享年61。しかし没年には異説もあり、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原で葬礼が行われているため(『言経郷記』)、それ以前に死去[4]の説もある。
なお、家督は長男の康長が継いだが[4]、遺領10万石のうち、康長は8万石、二男の康勝は1万5000石、三男の康次は5000石をそれぞれ分割相続することとなった。


以上、Wikiより。



石川数正