足利義昭 (あしかが よしあき) | げむおた街道をゆく

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足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍[1]。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「覚慶(かくけい)」と名乗り一乗院門跡となった。兄義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して「義秋(よしあき)」と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ、備後国に下向し長らく在国したため、一般には室町幕府は滅亡したとみなされている。
信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。



ー 生涯 -

将軍への道
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいたため、天文11年(1542年)11月20日、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室し[2]、法名覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このように義昭が幼年で僧侶となったのは、当時の室町幕府が財政難で食事の費用さえままならずに朝倉氏など有力大名の財政援助を受けて何とかしのいでいたためとされる[3]。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院が松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、弟で鹿苑院院主であった周暠も誘殺された。このとき、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された(久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても外出禁止の程度で行動は自由であった。『上杉古文書』では厳重な監視としている[4])。しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月に脱出し、近江の和田惟政を頼って落ち延び、この和田館で足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には矢島に移った。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して3和を命じたりしている[3]。
義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。永禄9年(1566年)4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官[3]。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言継の『言継卿記』によれば永禄11年(1568年)2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった言継の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。
奈良から木津川をさかのぼり伊賀(近臣の仁木義政が守護であった国・国人の一人である服部氏は、この後義秋に随行することとなる)へ脱出した義秋とその一行は、さらに近江の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置いた。
正統な血筋による将軍家を再興するため、永禄9年(1566年)2月17日、矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、御供衆でもあり六角氏とも深い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角氏一族の仁木義政(伊賀住人)の斡旋により近江の六角義賢・義治親子の許可を得た上で、山奥の甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていたとの記録が残る)としたものであった。
矢島御所において義秋は、三管領家の畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。とくに三管領家の一つである河内の畠山高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の秋高を、この頃に義秋に従えさせた。この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。しかし矢島御所のある南近江の領主である六角義治が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、8月には妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ下った[3]。
しかし、京都北白川に出城も構え、かつては応仁の乱で東軍の副将として隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった[3](武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた)。9月には若狭から越前の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、実現したりしている。しかし朝倉義景は、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)もかかえており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣が帰参する。なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった[3]。
なお、朝倉家滞在中の永禄11年(1568年)4月15日、「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した[5]。加冠役は朝倉義景が務めている。
やがて、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張へ移る。

幕府の再興
永禄11年(1568年)9月、沿道の北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の反乱もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された[3]。
将軍に就任した義昭は義輝暗殺容疑及び足利義栄将軍職就任に便宜を働いた容疑のある近衛前久を追放し[6]、二条晴良を関白職に復職させた。また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城の御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、奉行衆である飯尾昭連・松田藤弘らを配下につけ幕府の機能を再興した。また伊勢氏の末裔である伊勢貞興も、義昭の許しを受けて仕えたとされる。このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている[3]。
義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、織田信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興・三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を進め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしている。ただしこの計画は実現しなかった(ただし義昭は御内書において「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている)[3]。
義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

織田信長との対立
詳細は「信長包囲網」および「槇島城の戦い」を参照
新将軍として幕府を再興した義昭はまず織田信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。
信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために和泉守護に任じた。この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。
山城には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。
さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。
しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条[7]の掟書を義昭に承認させた[3]。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。
元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する[8]。信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・浅倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。
信長の専横に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐の武田信玄[9]、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。
元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した[10]。この意見書は義昭の様々な点を批判している[11]。これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し[12]、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている[13]。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5000から6000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている[14]。
元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。
信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ち(上京焼打ち)し焦土と化さしめた。ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作し、4月5日に勅命による講和が成立した。
しかし7月3日、義昭は講和を破棄。義昭は烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣真木島昭光の居城でもあった。烏丸中御門第の留守居は3日で降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。
織田信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(信長の憂慮が去ると反故にされてしまう)。また、人質でもあった。

備後への下向
信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を信長は自領とした。室町後期から戦国期にかけて室町将軍は天皇王権を擁して京都や周辺地域を支配し、地方大名の紛争などを調停した「天下人」の立場にあり、信長は義昭を擁し間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け[15]、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。同年(7月28日、天正元年に改元)8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。信長は天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。
しかし京都から追放されたとは言っても義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(公卿補任)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた[16]。
そのため近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続けた。また京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。『公卿補任』によると、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで足利家の源義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。
京都からの追放後、義昭はいったん枇杷庄(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている[17]。 しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。
翌・天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。
天正3年(1575年)、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に織田信長が任官してしまう。
天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移った。鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地から、義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下しており、天正4年には甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦をもちかけているが、実現を見ていない。 天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を打ち破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。
しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる[18]。
信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた)。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。
同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586年)、羽柴秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続いた。この2年間は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。

京都への帰還
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州征伐に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。義昭は将軍として豊臣の九州征伐以前から豊臣秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を鹿児島に送って和議を勧め[19]、九州征伐末期である天正15年(1587年)4月にも昭秀を送って義久に重ねて和睦を勧めている[3]。そして島津氏が秀吉の軍門に下った後の天正15年(1588年)10月、義昭は京都に帰還する[18]。その後、将軍職を辞して受戒し、名を昌山(道休)と号した。
征夷大将軍を辞してのちは准三后の称号(待遇)を朝廷から受けている。
また、秀吉からは山城槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前名護屋まで参陣している。
晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる[20]。
慶長2年(1597年)8月、大坂[21]で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61[3]。


以上、Wikiより。



足利義昭