絵描き、輝聖(佐藤輝之(元、輝吉=FLEA))のブログです!自作の絵がルーブル美術館に収蔵されるまでを追ってみようと思います。自作の絵の紹介、作品展示情報、カレーの食べ歩き、映画や本の感想文、ぼやき等のちょっぴり恥ずかしい日常まで公開しちゃいます☆。
*最新情報*
◎作品サイトを始めました。下のリンクからどうぞ!
「Terukichi Art Gallery」
http://teruyuki-sato.zapd.com
「輝吉 アート ギャラリー
」
◎アメリカはロスアンゼルスの邦字新聞「羅府新報」に絵の取材記事が掲載(現地2010年10月5日付)され、ついに海外進出のきっかけを掴みました。
http://rafu.com/news/2010/10/the-creation-of-an-artist/
~ 記事の全日本語訳 ~
Arts & Entertainment
「アーティスト創造」 (あるアーティストの誕生)
(佐藤輝之は芸術の世界で今に至るまで 超現実的な道を歩んで来た)
羅府新報記者: ジョーダン・池田 (Jordan Ikeda)
アーティストの人生とは困難なものである。
芸術史上、重要視されている偉大なアーティスト達でさえ、その生前は大抵はお金も名誉もなく、世間に認められる為には、大変な苦労と努力をしいられた。
死後に、わずか一握りが天才と呼ばれる域に達する事が出来ても、その他殆どは才能を認められることもなく、又社会に全く知られることもない運命をたどって行った。
今日(こんにち)のアーティストも又、狭いアパートに住み、アートスクールの学費の借金の支払いに追われ、生活費をまかなう為には気の向かないアルバイトや仕事をするなどと、同じような生き方を共有している。(たとえそれが宿命ではないにしても)。
さて、有望なアーティスト、Teruyuki Sato(佐藤輝之)の今までの人生も、やはり浮き沈みのあるものであった。しかし幸運なことに、芸術(絵画)が彼にとっての安らぎの場となり、又彼の生活と外の世界とをつなぐ、一つの架け橋ともなって来た。
1967年に東京で生まれた佐藤は、小さい頃から、墨、絵の具、鉛筆などで絵を描いていた。「小さい」という言葉は、この場合ふさわしい表現なのかもしれない・・・というのは彼は子供の頃、身体が弱かったからだ。運動も苦手であったため他の子供たちによくいじめられたという。
「絵を描くということが唯一、私が自信を持てることでした。」と羅府新報のインタヴューで佐藤は語った。「それがクラスのヒーローになれるチャンスでした。」
卒業アルバムや、美術のクラスで発揮した、佐藤の美術的感性が彼の学校での印象を新たなものにして行った。
彼の絵はクラスメートをわっと感動させて、多くの子が彼を尊敬するようになり、その才能を褒めてくれさえした。
「私は自分の居場所が欲しかったのです。」と佐藤は言う。「絵を描く事が、私のアイデンティティーとなり、それからの自分を形作って来ました。」
しかし、皮肉な事に、この彼の”アイデンティティー”(絵を描く事)は、17歳の時の母親の死後10年間は音楽に傾倒した為に、しばらく中断することになる。
母の死という悲しみを紛らす為に、彼は音楽や芸術に没頭していった。1980年代は音楽的に退廃的な時期だった。この時期、MTVが生まれ、又、映画音楽のサウンド・トラックなどが全盛をきわめていた。彼の一番好きな歌手は「デヴィッド・ボウィ」だったが、「フラッシュ・ダンス」や「トップ・ガン」などの音楽に も惹かれた。
高校を卒業後、東京の「PAN School of Music」に入り、卒業後は、CMソング制作会社「コバ・ミュージック出版株式会社」でインターンとして働き始める。そこでは、いくつかの日本ではとても有名なCMソングの制作のアシスタントも務めた。
コバ・ミュージックでの仕事がなくなった後、佐藤は友達と思い切ってバンドを結成し音楽活動に乗り出した。そして、バンドで自主制作したC.D.のジャケットを彼がデザインした時、仲間内でそれがとても話題になり気に入られた事がきっかけとなり、絵を描く道に彼を再び戻す事に繋がって行ったのである。
10年間、音楽の道で成功する為に努力をかさねたが、陽の目を見ることはなく、佐藤は再び自分の真のアイデンティティーに帰ることになる。
「運命とはおもしろいものですね」と佐藤は言う。
37歳の時から佐藤は独学で油彩を学び、新たな画家としての道を歩み始めた。
2007年には、「(第47回)東京都民美術展」に入選し、彼の作品は上野の東京都美術館に展示された。
又2008年には、「(第21回)日本の自然を描く展」に入選した。(上野の森美術館に展示された。)
その後は、絵画が彼の生活の中心を占めていくようになる。
彼は昼間、食品会社で営業の仕事をし、夜は本来の自分に戻り、好きな絵を熱心に描いている。
現在は、今年の末に開催を希望している個展の準備に取りかかっている。
彼の絵はあらゆるものがミックスされて折衷的である。
その油絵は、彼のイマジネーションを心底から探求したものであり、限界を超越したアバンギャルドな作風である。
その殆どは、彼の一番好きだという画家、サルバドール・ダリに敬意を表したものとも言え、各作品には超現実主義の夢のようなイメージとシンボルが重ねられている。
「彼の作品は自身の心の内面の情景を圧倒的に反映しています」と佐藤はダリについて話す。「それらは、彼がそれを描いたとき、どんな心境だったのかと、いつも私に興味をいだかせます。私もダリのように、観るものを虜にしてしまうような画家になりたいのです。」
「虜にしてしまう」というこの言い方は、佐藤の、この世の終わりを凝縮して描いた作品「救世主」を言い表すのには適切な表現だろう。
作品の背景の支えになっているのは、生物と共に紅く燃えたつ木で、崩壊する街の真ん中で、きのこ雲のようにのように聳え立っている。
左側には、死が迫った老人が体内に赤ん坊を宿し、新しい生命への希望を保ち続けている。
幻覚のような、しかし美しく、風変わりで、そして多くの意味が含まれている作品だ。
ダリもとても誇りに思ってくれるだろう。
佐藤は最近、叙情味があり詩的な墨絵に魅かれているという。
5年前に父親が心筋梗塞を患ったあと、お年寄りがふとした瞬間に見せる表情に深い共鳴を覚えるようになった。
「その顔に刻まれた深い皺はその人の人生を物語っています」と佐藤は言う。
「白と黒の二つの色だけで、その人の生き様を紙に表すことができるのです。私は墨絵のそんな神秘的で不思議なパワーに非常に魅かれています。」
最後に、佐藤の夢とこれからの人生の目的は、彼の「アイデンティティー」(絵を描く事)を唯一、彼のすべての行いの推進力とすることである。
片方の足は青春から抜け出しながら、もう一方の足は、年を重ね人生に精通した領域に着実に踏み込んだ43歳の佐藤のこれからの芸術的展望とは、世代間のコミュニケーションの架け橋となる事であると言う。
「私は若者とお年寄りの両方を理解出来るようになりました。」と佐藤は話す。
「私は自分のアートを役に立てることができるでしょう。」
(日本語訳:明子姉さん)
ブログタイトルも変えました。これからも頑張ります。よろしくお願いします~。
①ブログテーマに「ROAD TO ROUVRE」「アメリカ珍道中」を設置。さらに「作品 墨彩画」「東京友禅」を増設しました。「アトリエ輝吉=FLEA」の中に散らばっていた絵の完成作品をまとめてご覧いただけるようにしてみました。「油彩」「水彩」「素描」「墨彩画」「東京友禅」など、ジャンル毎に分けて整理してあります。
②Myspaceにも「輝吉=FLEA」の名前で登録しました。バンドの音源も聴けるようになっています。アドレスはこちら
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③サイドバーのブックマークにはアメリカでタレント活動をしている義姉・明子姉さんの映画情報(インターネット・ムービー・データ・ベース<ⅠMDB>)なども載せています。