株が急上昇☆の監督 | くもんの日記 Ⅱ

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「岡田株急上昇!」


ワールドカップが開催する時点ではオシムという人が監督だった。


その監督が脳梗塞で倒れた。


そこで登場したのが岡田監督。

この岡田監督、

この代理監督は1度目ではない。


1997年W杯フランスの時に

加茂監督が更迭され(注1)代理監督として「仕方なく」指名された。


今回もオシム監督の「代理監督」だった。

この交代劇に

メディアは誰も彼を信じていない、もしくは半信半疑。


「交代せよ!」

の垂れ幕まで出された。


予選突破なんて

夢のまた夢

と思われていたでしょう?


オイラはこう思う。


「東郷平八郎元帥」という人と同じ人生を送っているように思える。

東郷元帥も本当は「窓際族」だった。(注2)


しかし、日本海海戦での活躍は歴史の通りだ。


活躍と批判は紙一重。


ギリギリの判断が命を救っていく。


二人とも「無口」だという。


けれど、参謀(コーチ)が良い人材であったら

ワーワー話さなくても

要所要所で的確に判断ができる人ならば

「ぼそっ」っと話せば足りるのかな?とオイラは思いました。

良い人には良い人が集まる。

日本海軍の参謀しかり、

サムライジャパンしかり。


東郷元帥は秋山真之(その他も)が側にいたし

岡田監督には本田(を含め選手全員)がいた。


岡田監督は4試合ともメンバーを替えなかった。


東郷元帥は「秋山中佐の考え」をより必勝を期して

大胆に

2~3000mまで近づいてロシア海軍を全滅にした。


どちらも

「肉を切らせて骨を断つ」

だったのであろう。


オイラはサッカー関係の話はしないけれど

人間の生き方には賛同したいと思いました。


岡田監督。

かっこよかったですよ^^東郷元帥と同じで

「彼は運がいいですからw」

と言われているんですかね?^^


(注1)

岡田の一大転機1997年 10月、フランスW杯 最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周 監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名される。

最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史 らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表 との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜 )。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。

1998年 の本戦直前に不振だった三浦知良 北澤豪 をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼んだ[2] 。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。なお、1998年5月31日メキシコ戦からW杯ジャマイカ戦までの国際Aマッチ5連敗は歴代ワースト記録である。


(注2)
日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府 司令長官となり、明治34年(1901年 )には新設の舞鶴鎮守府 代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク 軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。

しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳山本権兵衛 に呼び戻され、明治36年(1903年 )12月に第一艦隊 兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞 がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。またこの時、明治天皇 に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。