③ゼロ時間へ(クリスティの心理学)
今回は、ポワロでもミスマープルでもないノンシリーズ。
とはいっても他の作品で数回以上出てきてるバトル警視が謎解きをします。
原題は Towards Zero
ゼロ地点=つまり殺人の起こる地点に向かっての話です。
今では他の作家が、いつ殺人が起こるのか…とやきもきさせるような文学性の高い作品をたくさん書いていますが、40年代はまだまだ本格推理全盛で、のっけから殺人があってそのトリックを解くのが主流。
アガサにとっても試験的な作品でした。
そして見事に成功したと僕は思います。
のっけからまだ見えぬ犯人の殺人計画のシーン。
そしてバトル警視の私生活へと移り、その場面も謎解きの伏線。
計画された殺人以外にもいろいろな事件がありますが、それらすべてが男女の三角関係のドラマで
薄くコーティングされています。
全体を見ると心理学的な要素より、精神医学的な要素の方が強いこの作品。
しかし今回特に説明したいのが、心理的なエネルギーの話です。
冒頭で、ある青年が自殺を図って助けられます。彼はこのあと最後の方まで出てこないんですが、
その状況変化がドラマティックで、真の主役は彼だったんだなと気づかされるのです。
そして犯人が陥落するシーンもそうです。
万全の計画を立てていた自信が崩されたとき、ただ落胆するのではなく、精神的に崩壊してしまいます。
この2点に共通するのが心理的なエネルギーです。
よく負のエネルギーとか聞きますが、物理的には正も負も、数値的に同じであればただ方向が違うだけです。
そしてこのプラスとマイナスは、しばしば同じ数値でバランスをとろうします。つまりゼロにしようとするのです。
たとえば今回の挿絵のような2つの坂。谷間がゼロと思ってください。
そこにボールを転がした場合、下ってゆくのがマイナス、上ってゆくのがプラスです。
摩擦や重さなど邪魔をする条件を考えないと、ボールは谷に落ちてまた同じだけ上るというのが理屈です。
あとは斜面の角度でスピードやエネルギーが変わります。急な坂から落ちれば、谷からまた上がる速度も高さも上がります。これは加速度のせいです。
この加速度は、物理的なことだけでなく、心理的にも大きく作用しています。
先にあげた男は、実際に崖から身を投げるまで精神的に追い詰められます。
実は自殺というのは、ただ不幸というだけではなかなか達成できません。通常の精神バランスを1歩、
越えるのです。いわば本当に脳の病気だったり、最終的には精神疾患だったりすることが多いのです。
自殺も寿命といわれるゆえんもこれです。
ここで助けられてしまった彼が、今度はうまくやるからな、と言うと、看護婦にこう言われます。
「それはだめね、もう自殺はできないわ。やれたためしがありませんもの」
これは自殺未遂に終わった人たちのデータからも9割以上正しいことです。心理的にもどん底。
そこまで行かないと、自殺を達成するエネルギーが出てきません。彼の場合は、その高かった心理的な山が、助かったことである程度ならされてしまい、加速度がなくなってしまった状態です。しかし、どん底を体験したエネルギーは消えたわけではありません。物語終版の活躍はそのエネルギーが方向転換してプラスへ向かい、その分普通ではできないことをやってのけるのです。
一方。殺人を計画していた犯人の方は、計画を立てたことで心理的に高揚しています。
先進的な文明社会では自分を殺すのと他人を殺すのは同じことで、殺すと言うこと自体、精神のバランスをすでに欠いています。この犯人もかなり傾斜のきつい高い山を心理的に築き上げていますが、そこから押されてしまうと、すごいスピードで落ちることになるのです。
こうしてみると、現実的にもいろいろな例が思い浮かびます。
事故で急に身障者になってしまった人が、健常体の人よりすごいことを成し遂げたり、すごい貧乏を経験した人が、社会的、経済的な成功を収めたり、プラスの方向(これは何も上とか下とかいうことだけではなく)へ向かう話がたくさんあります。つまり慟哭を経験した者が持つ心理エネルギーの大きさが働くのではないでしょうか。
僕の知り合いのおじいさんにシベリア抑留を体験して生き延びた方がいます。今ではぼけてはいますが、
身体的には健康です。こうした丈夫さは生活嗜好もあるでしょうが、やはりつらいところを切り抜けた強さを
感じます。ということは先にあげた心理エネルギーや物理エネルギーだけではなく、体力にもそれは当て
はまるということかもしれません。
ここでひとつ紹介したい心理学用語が、フラストレーション耐性(=Frustration Tolerance)です。
心理的な障害を生ずることなく,ストレスに耐えうる能力またはその限界のことで、これは僕の知り合いの
おじいさんだけではなく、この作品中、少なくとも2人にあてはまる言葉です。
さて加速度の話に戻ると、極端な例ばかりではもちろんありませんが、逆に言えば、大きな不幸も感じない
代わりに、特にすごいことも成し遂げないのは、この心理的な加速度が足りないせいともいえるでしょう。
これは氷を作る実験でもたとえられます。
氷を早く作りたいときは、なるべく熱いお湯を使います。お湯が冷めていく加速度が、ゼロを通過して凍って
ゆく時の加速度を与えるのです。
この物理や数学で習う放物線は、日常生活や心理的にも大変有効です。
幸せそうにしてる人が冷水を浴びせられた時のショックで怒るエネルギーは、
すでに不幸な状態にある人が受けるショックより大きく、荒れ狂うこともあります。
僕がよく皆さんに留学を勧めるのも、ひとつはこのエネルギー取得のためです。
現地で受けるショックは意外と大きく、その分つぶれる可能性もある代わりに、大きく飛躍するチャンスだと
思うからです。つぶれても日本に帰って来れますし、その挫折感がまたエネルギーになることもあります。
とにかくぬるま湯状態に変化をもたせることはいいことだと思うんですが…。
物語から脱線してしまいましたが、
この作品では、うわべだけの心理学を用いた場合の悲惨な例を、バトル警視の娘が行く名門学校の校長が
実践していて、今の心理学ブームを皮肉ってもいます。
犯人と決め付けられた娘の心理状態は、蛇ににらまれた蛙、反論することもできず、精神的にマヒ状態に
陥ることになります(先ほどのフラストレーション耐性)。
他にこの作品の中で目に付くのは、やはり潜在意識的な連想です。
バトル警視がなんか変だと感じたものは、過去にポワロがやったことを覚えていて、その際の状況を思い出したからです。また、犯人逮捕となったときに思い出したのも、その前に語られた私生活の中で起こった事件を覚えていて、その相似性で犯人かどうかの確信を得ることになります。残念ながら、またもやほんとの手柄は、背の高い好青年にさらわれてしまう彼ですが、そのどっしりとした探偵ぶりは大変魅力的です。
今回のポイントは…
物理と同じように心理的にも加速度があり、どん底に見えれば見えるだけ、その分すごいエネルギーを
秘めている、そして方向転換でそのエネルギーをプラスにも使えるということ、それに尽きると思います。
最後にこの作品で1番印象に残った言葉。それは冒頭の看護婦さんからです。
自殺する権利はないといった彼女に、彼は、
「つまりぼくがいつか偶然通りかかった場所で、暴れ馬をとりおさえて、かわいい子供を助けることになるかもしれないとでも言うんだろう?」
彼女はうまく言葉にできず、もどかしそうに言います。
「ただね、どこかで生きているだけなのかもしれない。別に何をするっていうんじゃなく、あるときある場所にいると
いうことだけ。あなたがどこかの町を歩いているというだけのことが、何かとても大切なことになってくるんですわ。きっと自分でもそれとは気づかないうちに」
このバタフライイフェクトの先触れとも言える言葉が、最後に胸にしみます。
心理的要素はあまり表には出ないものの内容は濃く、ミステリーとしてもロマンスとしても楽しめる1冊です。
数あるアガサの名作の中でもこの作品は、ファンの間で常にトップ10に入る作品。この機会にぜひトライして
いただけたらうれしいです。
用語の説明
エネルギー=エナジー= energy
これは物体の持つ力の総量を言う言葉で、たとえば「エネルギーが有り余ってるね」という時。
モメンタム=momentum
「すごいエネルギーに押しつぶされた」といった瞬間的な力には、実はこの言葉を用います。
日本語のように何にでもエナジーを使わないようにね。
加速度=アクセラレーション= acceleration
速度の増加をいい、動詞は accelerate 加速させる、促進する、時期を早める
車のアクセルもこれが語源ですね。
フラストレーション= frustration
心理学用語で欲求不満は有名ですが、挫折や失望など一般の意味もあります
ストレス= stress
圧迫、圧力。これは上のフラストレーションとよく混同され、日本語では何でもストレスにしてしまいますが、
半分以上の例が英語ではフラストレーションという言葉に置き換わります。
また動詞も大事です。緊張させる、圧迫する、アクセントをおく、などの他動詞です。
バタフライイフェクト= butterfly effect
蝶の羽根のひとひらが世界のどこかでハリケーンを起こす、という例からのカオス理論。
大変小さな物理的な動きによる、後の大きな影響をいいます。