点々画草 -5ページ目

塵は塵なりにじたばたしてみせよ

今回は今日見たテレビの話をしよう。まず、起きてテレビをつけるとアッコにおまかせ、とか噂の東京マガジンとか、なんでも鑑定団の再放送がやっていたので、それを興味のありそうなとこだけチャンネルをぱちぱち変えながら見た。

話は反れてしまうが、こういう行為のことは俗にザッピングというそうだ。私は以前、現在ソフトバンクの孫さんが勧めて止まないツイッターを更新していた時期があったのだが、その記念すべき、飽きて更新をやめてしまった最後のつぶやきが「今日のザッピング。人類の滅亡した世界と、めためたのサラリーマン。うにゃあ!」であった。別に猫属性があるわけではない。ただ本質的に私の人格の中に猫が住み着いているだけである。これはちょうどテレビで人類滅亡後の地球の様子をシュミレーションしてCGでみせる番組と、ドラマだったかドキュメントであったかで、くたくたに疲れきったサラリーマンが登場する番組が同じ時間にやっていて、私はザッピングすることによってそれを同時に見て、なんともいえない感慨をうけたのでつぶやいてみたものである。いわば地球規模で考えた時の人間社会の小ささというものと、サラリーマンとして考えたときの人間社会の大きさというものを同時に突きつけられて、思わずうにゃあ!と呻いてしまったのである。感覚としては切なさとかやるせなさに近いのだろうか。

ただこういうマクロなものとミクロなものを同時に考えたときに途方もない気持ちに駆られるということは多くの人も同じ様に経験することであろうと思う。例えば、マクロミクロといえば経済学が思い浮かばれるが、マクロで経済を捉えようとしたときに、それをミクロなことひとつひとつを取り上げて実証してみようなんてことは途方もないことである。これは生理学でも同じことが言えるし、砂漠の真ん中に寝っころがって満天の星空を眺めていると、嫌いだったあいつに会いたくなる、というのでも同じことが言えるんじゃないかと思う。

さて閑話休題、それから「グッと!地球便」を見た。これは何とはなしに毎週のように見ていて、毎回一人ずつ海外で暮らす若い日本人を紹介する番組である。彼らの多くはまだその道で成功しているわけではなく、あくまでその途中にいるというのが特徴であると思う。まだ何者でもないという点でぐらぐらとしていてもおかしくはないのだが、しかし彼らに共通しているのはなんともしっかりとしているというところである。きちんと自分の道に対して勝負を挑んでいる。可愛い子には旅をさせよ、という言葉がこんなにぴったりと当てはまる事もそうないであろうと思う。

その後「そこまで言って委員会」を見た。これは政治の番組である。私は今の日本は、国民一人一人の意思の方向性を決めなければならないという点で、大きな岐路に立たされていると思う。ひとつは、韓国をはじめとした新興経済国の猛追を振り払わんと、ただでさえくたくたのサラリーマンに鞭を打ってでも現在沈みかけている経済を復興させるか、もうひとつはいっそ経済的な豊かさはある程度あればいいと諦め、ヨーロッパの小国的な高負担高福祉の社会を作ろうとするか、である。私のような若者がいうのもなんであるが、今の若者に日本の経済をなんとかしよう、世界へ出て行こうというような覇気はほとんど無いと思う。むしろある程度の収入があってある程度の生活ができればそれでいい、と思っているだろう。私もそれはそれでいいと思う。そうすると目指すべき国柄は後者になるだろう。ただひとつ気がかりなのは中国の軍事費拡大の話である。中国がこれから浮き沈みはあるにせよ、アメリカ、EUに次ぐ大国になることは避けられない事である。そしてきっと強大な軍事力を持つようになり、周辺諸国に強い影響を与えるようになるだろう。そのときの日本の立場であるが、このままアメリカの隷属国としてアメリカの軍隊に守られ続けることに大きな相違はないと思う。しかしもしそのとき日本の経済力がヨーロッパの一カ国並でしかなく大きな力を持たないのであれば、私は日本の国土が朝鮮戦争時の朝鮮半島のような、アメリカと中国の戦場になってしまうのではないかということを危惧している。大きな歴史の中で、これからも平静の時代が続くのかといえば、そんな確証はまったくないのだ。戦争の絶対唯一の要因は貧困であると私は思う。経済社会は何があるか分からない。自分達の命を守るためには、友好ではなく強くあらねばならない。田嶋先生の話を聞いていてそう思った。

今日はその後の「世界を変える100人の日本人」の再放送まで見てしまった。特集は棋士の村山聖。幼いころから病魔を抱えながら将棋に没頭し、名人という位のすぐ側にまで近づきながら病気で若い内に亡くなってしまうのだが、私が一番引きつけられたのは、画面越しにでも伝わる彼のオーラだった。見た目は決して眉目秀麗というわけではないのだが、例えていうなれば、まるで裸の刀身というような、重厚でそして触れれば切れてしまうようなそんな雰囲気を漂わせていた。想像するに彼自身は非常に優しいのだが、常に死を傍らに置き、常に真剣に生というものに相対している、その純粋さというものが私達の身を切り刻んでしまうのではないかと思う。私はそんなに強くはできていない。

私はまさにこれから社会に立ち向かおうとする、「ゴリオ爺さん」でいうところの、立身出世という野心を胸に秘めたラスティニャック、と同じ立場にある。私ひとりの一生なんて、長い歴史や人間社会全体から見たら、意味や目的もない塵みたいなものでしかないということは十分に承知をしている。しかしそれでも戦って勝たなければ男じゃないと思うのだが、どうであろうか。

クモの巣を破壊することで人生の哲学を得た

ここ最近で、ハエほど私をやきもきさせたものは他にない。私がパソコンに向かっていると、どこから進入したのか大きなハエが飛んできて、腕にとまった。私はすぐに息を吹きかけて追い払った。ハエが蚊と違ってやっかいなのは、腕にとまったからといって、手で叩き潰すわけにはいかないというところにある。実際に潰したことがあるわけではないが、それが余りに悲惨な光景をつくりだすであろうことは目に見えている。同じ様に机にとまったからといってノートで叩き潰すのもためらわれるし、壁、床、本、みんなそうである。しかもこいつが何度追い払っても一向に去り行こうとせず、しつこく私の周りを徘徊する。さらには図々しくも、飲みかけのお茶のご相伴にあずかろうとさえする。私は心の中で絶叫して、叩きのめしてやろうと思う。こういうときに宮本武蔵が傍らに控えていてくれれば便利だと思う。ハエが飛んできたら、さっと箸でつかんで捨ててくれるに違いない。

お寺のお坊さんは輪廻転生、命あるもの全て人間の生まれ変わりであるかもしれない、の考えを持っているから、たとえ蚊が腕にとまっても潰したりはせず、手で払うだけ、という話を聞いたことがある。私もそれぐらいの広い気持ちでハエに対して接せられたらよいと思うのだが、しかしもしこのハエが元は人間だったのだとしたら、なんとしつこく、厚かましい人間だっただろうかと思う。

下宿先の網戸のたてつけが余りよくないようで、ハエだけでなく他のいろんな虫たちが私の部屋を訪れる。朝起きるとアリが砂糖目当てに行列を組んでいることがあった。彼らは生物で習ったように、きれいにホルモンのルートをつくっていた。私はそのルートを辿っていき進入口と思すべきポイントにこれでもかというぐらいに殺虫剤を吹き付けてやった。また、次の日のために鍋にとっておいたカレーの中にコバエが沈みこんでいることがあった。どうやら鍋の蓋の蒸気孔から進入したようで、そのためかカレーにはカビが生え、とても食べられる状態ではなかった。それから私はコバエの溜まった生ごみのゴミ袋に散々キンチョールを噴霧するようになった。

まあ、とはいっても最近の流行は生物多様性でもあることだし、虫に対する見方もちょっとは見直したほうがよいのかもしれない。そういえば今年の24時間テレビのテーマは、大きなアリの絵の上に「ありがとう」であった。私が普段使うようなくそくだらないダジャレでも、これだけ大きなイベントのメインテーマとして堂々と使われると、なんだか逆にそれが新鮮で洒落のきいた文句のように見えてしまうから不思議だ。このアリをデザインしたのはアリエッティの監督さんらしく、劇中にもたくさんの可愛らしい虫が登場するらしい。そんな周りくどい宣伝をするぐらいならいっそTシャツの「ありがとう」の代わりに「アリエッティ」と書いてしまえばいいと思う。話は全然関係ないが、アリエッティのキャラデザインの万人受けしなさそうなところに好感が持てる。まあ、リアルにアリエッティサイズで虫を見たら、相当グロテスクなんじゃないかと思うのだけど、それはいいや。みなしごハッチも映画がやるようだし、もしかしたら虫王に次ぐ虫ブームが来ているのかもしれない。

私の友人にも虫を見直し始めた人がおり、クモの巣をあらためて見てみると綺麗だな、と言っていた。たしかに引っかかりさえしなければいいものなのかもしれない。以前四国を歩いて回ったとき、人通りの少ない道であったのか、やたらクモの巣の多い山道を歩いたことがある。初めはうっとうしくて仕方がなかったのだが、いくつもクモの巣を破壊しているうちに、うっとうしいと思っているのはむしろクモのほうだろう、と思うようになった。丹精こめて作った芸術品がばったばったと壊されてしまうのだ。しかも壊す当人は必要に迫られてその道を歩いているわけではなく、純粋に趣味として歩いているに過ぎないのだ。人間なんて生きているだけで虫にも、そして同じ人間にもなにかしらの迷惑を与えるものだ。どうせ迷惑をかけるのだから少しでも楽しく生きた方がいい、とクモの巣をなぎ払いながらそう思った。

彼女は「みんなと卒業旅行には行きたくない」と言い放った

私は後半年で大学を卒業する。このころになると頻繁に話題に上がるようになるのが、「卒業旅行どうするの?」という声だ。私は人にこれを聞かれると「別に特に決めてないけど、行ってもいいし行かなくてもいいし、行きたいことは行きたいけど行かないならそれでもいいかな」と、いったような曖昧な受け答えをしてしまうのが常である。要約すれば、最近の若者らしいところの「べつに」とか「びみょー」とかそう言っているのとなんら変わりはない。

今日のヤフーのトップページにある「みんなのアンテナ」のテーマは文化祭についてのものだった。文化祭の実行委員に仰せつけられた高校生が、やる気のないクラスのモチベーションをどうすれば上げられるのか、という問題に対して、ネットの住民にアイデアを求めていた。これは日本中の高校生が毎年のように突きつけられる課題であるが、その模範解答はすでに用意されている、「もう大人になったらそういう機会はないんだから精一杯楽しむべきだ」、と。私だってそう思う。一方で卒業旅行に対しては余り乗り気でないのもまた事実である。二つはほとんど同じ問題のように見受けられるにも関わらずだ。

私にだって言い分はある。まず、大学を卒業する年には卒業旅行に行くべきだ、という世の中の風潮がたまらない。そんなこと誰が決めたんだろうかと思う。ハワイでちゃらちゃらしてる大学生の集団を想像するのも嫌だ。しかしながら私が卒業旅行を渋る一番の大きな理由はA君にこそある。私はA君のことが大嫌いなのだ。

A君も私と同じように今年度の3月に卒業を控えている。A君は当然のように卒業旅行には行くべきだと考えている。むしろ行かなければならないという脅迫観念に脅かされている。彼はこの4年間ちっとも楽しいことはなかったし、なんの努力もしなかった。ただなにかしなければならないという強迫観念に駆られつづけていただけで、その実は何もしようとはしなかった。なぜならば、今の自分と思い描く自分の間に横たわる大きなギャップを直視することができなかったからだ。彼はそのことを他人から見透かされることが怖くて仕方がない。だからどうしても卒業旅行には行かなければならないと考えている。

もちろんA君は仮想の存在である。しかしながら私の一部でもある。私は彼のことを嫌うのと同時に可哀相にも思う。ただ、私は彼のようにはなりたくないのだ。自分が彼のようであると思われたくないし、自分でも認めたくないから、卒業旅行なんて行かなくていい、と言い張るのだ。

私は今までやりたいようにやってきたし、むしろよくやったと自分に自信を持っている。だから本当の意味でどっちでもいいのだ、行っても行かなくても。行くとすれば本当に気の合った友達と数人で行きたい。卒業旅行を、脅迫概念を理由にして行くことはしたくないのだ。外聞を気にして卒業旅行に行くのなんてくそっ食らえだし、世の中にそういう理由から旅行に行く友達集団がいるというのが私の馬鹿馬鹿しい妄想であってほしいと願っている。ただそれを強制する大人がいるのは事実だ。

つい先日、木曽の御嶽山に登ったとき、私はそこの山の精の声を聞くことができた。彼は、「社会に出てから卒業旅行について話を振られたときに『行ってない』って言うのはまずいんじゃないかな」と、言った。そのとき「行ってない」と言うことは、自分には友達がなく、つまりは社交性もなく、大学生活の4年間はまったくもって充実していなかった、と言っているのと同義である。たかが卒業旅行に行っていないというだけでそこまで判断する想像上のおじさんの人間性の薄っぺらさには辟易させられる。ただし、これは無理からぬことにも思える。なぜなら私だって相手がそういえば、そう判断してしまうことに相違ないからだ。

最後に私の同じ大学の友人の卒業旅行についての話を聞いて欲しい。私はその話を聞いて彼女のことを「サイコー」だと思った。自分もそうありたい、と思うかどうかは別だけれども。

彼女には大学に入学してから4年間ずっといっしょにつるんできた12人ぐらいの仲良しグループがいた。そして卒業を控え卒業旅行に行こうという段になり、彼女はその幹事をすることになった。しかしその12人のなかの個人的な不仲が露呈し、まとめるのが難しくなってしまった。そして彼女はすっかり嫌気をさしてしまった。彼女は卒業を間近にしながらメンバーに言ってのけた、「私はあなた達と旅行に行きたくないからやめるわ」、と。

私も彼女ほどの思い切りがあればと思う。その豪胆さには敬服させられる。そして人間として強いと思う。行きたくないなら行かなければいいのだ。多分彼女は卒業旅行に行ったのか、と会社の上司に聞かれたら彼氏と行った小旅行についての話でもするのだろう。なんだっていいのだ、大きくても小さくても、行ったという名目さえあれば。