点々画草 -4ページ目

秋の夜長にむくむくと

今日は久しぶりの雨だった。思えばここのところからっきし降っていなかったから、これが待望の雨だった人も多いことだろう。布団の中にいながらも雨の降る音は聞こえていたので、雨か、珍しいな、と認識はしていたのだが、朝起きても窓の外が薄暗いのでちょっと驚いた。窓から吹き込む風も冷たい。秋の気配、そしてそれを通り越して冬の匂いまで感じられたような気がした。長野の秋は短い、あっという間に冬になってしまう。つい最近まで梅雨の時期の雨の多さにうんざりしていたのかと思うと、季節の移り変わりは本当に早いものだ。

秋の空気はいつも人に郷愁の気持ちを起こさせる。それはなぜであろうか。アスファルトに落ちて縮こまった枯葉だとか石垣から覗く赤く熟れた柿のせいであろうか。秋のイメージというのはなぜか私に夕暮れのイメージを想起させる。夕暮れも、だんだんと空気が涼しくなってきて公園で遊ぶのを切り上げて家に帰らなければならないという点で秋の郷愁と通ずるものがあると思う。秋にだって朝昼晩すべて揃っているし、もちろん夕暮れだって一年を通して存在するわけだが、この二つを合わせるとなぜだかとてもしっくりとする気がする。そう考えてみると冬は夜、春は朝、そして夏は昼、とそれぞれの季節がそれぞれの時間に対応しているかのような気もしてくる。春は朝起きて今日は何をして遊ぼうかとむくむく楽しさが膨れ上がる季節であり、夏は思いっきり遊び、秋は冬の訪れを感じながら家路に着き、冬は冬を乗り越えるために家の中でぬくぬくとすごすのである。まあ、これは清少納言に喧嘩を売りつけているのも同じなのだが。

一日には一日のサイクルがあり、一年には一年のサイクルがある。私達は大きなサイクルの中の小さなサイクルを生きている。ここまで考えれば昔の人々が輪廻転生として人の一生でさえサイクルであると捉えたのも実に自然であろう。私は特に輪廻転生を信じているわけではないが、しかし自分の生というものにこだわらず、生そのものと考えれば確かに一生もサイクルのひとつなのだろう。そう考えると今の私はちょうど夏のはじまり、一日でいったら午前10時あたりというところであろうか。年齢でいえば20代であるから、アンダーソン君の元気具合で言えば、手を横にして開いたときの人差し指ぐらいであり、可能な回数は「×9の法則」でいうところの2×9=18なので10日に8回というところだろう。しかしながら一生においてもそのうち秋が来て、そして冬が訪れて、家でじっと寒さを凌ぐ日がやってくるのかもしれない。

とはいっても現代においては、冬こそ俺の時代だぜ、と言わんばかりにスノースポーツに興じる人もいれば、朝方までパソコンの前に座ってむくむくしている人もいたりと、なにかとサイクルが乱れ勝ちなので、ピカソよろしくの後期高齢者絶倫人生もまた可なのかもしれない。

お好み焼きにキャベツをたくさんいれるべき理由

私はいまかなりの赤貧状態にある。と、いってしまうと本当にお金に苦しんでいる人に対して失礼になってしまうので、それなりに貧しい状態にある、というぐらいにしておこう。その一番の原因はバイトを首になってしまったからということなのであるが、そのために、食うや寝るやにはありがたき仕送りのために困らずにいられるのだが、しかしそれ以上の出費がなんとも苦しくなってしまった。服は買えないし、外食にも行けない、床屋に行くお金ももったいない。こうなってしまうと家の中に縮こまって本を読むかネットに戯れるかしかなくなってしまう。まあ、お金があったときもそんな生活だったなんて事は蛇足だけれども。

私の大学生活は、振り返ってみればお金との戦いであった。預金口座には常に残高がなく、おまけにあぶく銭がはいるとわりとパッと使ってしまう性質であるから、光熱費や水道代が払えなくなることがよくあった。しかたがなく食費を切り詰めることになったのだが、一番いいのは朝昼晩自炊をすることなのだが、しかし怠けることが唯一の長所である私にとって、それを毎日続けることは恐ろしいほどの難問であった。そのため、お金をかけずに楽な方法でお腹を満たそうと、日々趣向を凝らしていた。結局私が見出した一番の節約メニューはお好み焼きである。これは日本三大安い食材である、小麦粉、キャベツ、卵、のみで作ることができ、なおかつ、炭水化物、野菜、タンパク質を同時に摂取することができるという、まさに完璧なキングオブ料理である。さらに昼食の弁当として簡単に持ち運べるという点も最高に便利だ。次はペペロンチーノで、これは唐辛子とニンニクだけで作ることができるので、とてもお値打ちである。この二つのメニューに今までどれだけ助けられてきたことだろうか。そうやって工夫を重ねていても、ときには仕送りまでの残り一日で、食材からなにまですっからかんになってしまったこともある。そのときは友達に100円を借り、メロンパンで飢えをしのいだ。今ではものすごく気軽にコーラでも買うためにさっと使ってしまう100円だが、そのときは本当になけなしの100円だった。

お金がないといいこともある。それは夢がどんどんと広がるということだ。所持金の余裕さと物欲にどれだけの相関関係があるのかは分からないが、お金がないときは、欲しいものをただ考えているだけで、わりと幸せであったりする。友達が必死こいてバイトをして欲しいものを次々と買っていき、挙句の果てに、もう欲しいものがない、と言っているのを聞いたり、パチスロで儲けた大金の使い道に思いあぐねて、結局またパチスロに使ってしまうのを見ていたりすると、貧乏なのも案外悪くないな、と自らの貧乏生活のすばらしさをあらためて知ることができる。

ただ、社会に出れば経済的に自立しなければならないということを考えると、お金とは恐ろしいものだな、と思う。特に自分が奥さんを持ち、子供を持ち、そして両親の世話をしなければならないという時が来たとき、お金というものが私に与えるプレッシャーというものはかなり大きなものになるであろう。結局この世の中お金がなければ生きていけないのだ。

話は大きくなるが、それを象徴するひとつのニュースがある。

ギリシャへの糖尿病薬供給を停止 デンマークの製薬2社(47NEWS)

これは3、4ヶ月前のギリシャの経済危機の時に出たニュースなのだが、ギリシャ政府が薬剤購入価格を一方的に引き下げてしまったため、それでは経営が成り立たないとして、製薬会社が供給の停止を勧告した、という内容である。多分ノボノルディスクファーマの名前があることから、主にインスリンのことであると思う。糖尿病患者にとってインスリンは常に投与しなければならない薬品であり、これがないということはもちろん命の危険性に関わる問題である。この問題がこの後どう展開したのかは知らないが、お金がないということは、こういうことなのだろうか身も凍るような思いがする。

「ゴリオ爺さん」のラスティニャックも、常にお金の問題に悩まされ続ける。「ゴリオ爺さん」の作中を流れる主題として、親の娘に対する無償の愛、だとか、ラスティニャックの若い青春の力だとかも重要なものに違いはないであろうが、私はこのお金が人生に投げかける無常さであるとか、やるせなさというものが一番にくるのではないかと思う。お金がボォケェ婦人の精神を醜く汚し、ヴォートランを窮地に追い込み、そしてゴリオ爺さんと二人の娘の人生を滅茶苦茶にしてしまう。ラスティニャックは常にお金とその誘惑とに悩まされながら、それでも戦い続けることを決意する。その決断が彼にとって本当に良かったのかどうかは分からない。お金がないのは本当に苦しいことだが、お金に取り付かれてしまった人生というのもまた悲惨なものである。いかにこいつと上手く折り合いをつけてやっていくかが重要なのであろう。まあそんなこと誰しもがとっくに承知していることなのだろうけれども。

もし貧乏になってしまったらお好み焼きを食べるべきだ。最高に安上がりで食べられて、しかもキャベツをいっぱい入れて作れば糖尿病にもなりにくいであろう。まさに一挙両得、最強の料理だと言わざるを得ない。作中には描かれていないが、もしかしたらラスティニャックも普段お好み焼きを食べていたのではないだろうか。この疑念が私のくだらない妄想に過ぎないと、はたして誰が断言することができるだろうか。

夢精のすゝめ

私にはひとつ大きな自慢がある。それは寝るときに見る夢が、ほとんどいい夢なのである。夢を見る人、見ない人、見るけどほとんど忘れてしまう人、内容のない夢を見る人、いろんな夢の見方をする人がいると思うが、私は幸運なことに毎夜のようにいい夢を見て、朝起きたときにはその夢を思い出して、なんともうっとりとしてしまうのが常なのである。時には悪夢を見ることもあるが、そういう時は夜中に目が覚めてしまい、そのあともう一度寝るとすっかりいい夢に変わってしまうことが多い。そうであるからなのかは分からないが、私は寝るのが大好きだし、日々の生活にほとんどストレスを感じない。朝、楽しい夢を見てうきうきした気持ちで起き、一日を始めるということは、そうでない人に比べて相当なアドバンテージだと思う。これが子供の頃からずっとそうだったかといえば、特に記憶がないことから、別段そうでもなかったのであろう。しかしながらここ最近は、一日のうちで夢を見ているときが一番楽しいときである、といっても言いすぎではないのではないかと思う。

夢の力というのはすごい。私がまだいたいけな中学生だった頃、それまでは特に何の意識もしていなかったクラスメイトの女の子が、突然私の夢の中に現れた事がある。私は目が覚めた後、なんでこの子の夢を見たんだろう、と訝しがりながらも、それからその子のことを意識するようになり、結局は好きになってしまった。平安時代の貴族よろしくなんともいい話ではないだろうか。また高校時代には、それは大学受験の当日のことだったのだが、その前の日の夜に、私は女の子とデートをしている夢を見た。その女の子のイメージはかなり漠然としていたのだが、ただ一点、赤ぶちのメガネをかけていた、ということだけが強く印象に残っていた。私は、いい夢だったな、と思いながらも現実の赤ぶちの女の子に心当たりがなく、なんだったんだろう、と首をかしげていた。それから受験票を持ち、バス停に行くと、なんと赤ぶちメガネをかけた女子高生がバスを待っているではないか。しかも激マブ。私はこれを予知夢だと言う気はさらさらない。しかしなんとも恐ろしい偶然ではないだろうか。私は運命を感じ、普段は知らない人に話しかけたことなどほとんどなかったが、勇気を出して、「受験ですか?」とか「バス来ないですね」とか一言二言話をした。残念なことにその子とはそれっきりになってしまったが、しかしそれからというもの赤ぶちメガネに強く反応するようになってしまったのは事実である。

最近私はニコニコ動画で「ゆめにっき」というゲームの実況プレイ動画を見た。これは他人がゲームをやっているのを後ろでただ見るという動画である。このゲームは主人公が自分の夢の中を自由にひたすら探検をするというゲームである。つくりはRPGだが、明確なストーリーはなく、敵も出現しない。当然夢の中だから、その世界観は抽象的でマップとマップのつながりも夢よろしく脈絡がない。私はこのシステムを非常に面白いと思った。たまたま主人公がネガティブであったらしくその夢の中が非常におどろおどろしいので、自分でやってみようとは思わないのだが、しかしもし自分が主人公であったとしたら、自分の夢の中を探索してみるというのはとても面白そうだ。本物の夢と違うのは、いくら探索を続けても、キーを押さない限り夢から覚めることがないから、好きなだけ自分の夢の世界を歩き回ることができるというところである。私の夢の世界は前述よろしく大抵は楽しい感じなのだろうけども、探検を進め、どんどん深い深層心理まで進んでいくと、もしかしたらヒヤッとするような恐ろしい世界も見つかるかもしれない。まあしかしプレイヤーはそこにたどり着く前に、余りの性的欲求のイメージの多さに辟易としてしまうかもしれない。

性欲と夢とは密接に絡み合っていると私は思う。その代表的な例は夢精だ。7、8年ぐらい前の朝日新聞に、夢精についての記事が載っていたことがあった。そこでは、ここ最近夢精をしたことがないという小学生中学生が増えているということを嘆き、その後夢精のすばらしさについて熱く語っていた。エロ本やAV、さらにはネットの発達によって、もしかしたら自慰を始める年齢が早まってきているのかもしれない。自慰行為をしていたら絶対に夢精はしない。実際に私がその記事の話を学校ですると、夢精をしたことがないという人は確かにいた。私は断然夢精推進派である。夢精のあのとろけるような心地よさには、どんなに芸を凝らした性行為をもってしても、決して敵うものではない。現実はイマジネーションの極地には勝てない。インスタントオナニーなんてもってのほかだ。

ここで夢精を体験したことがない人、もう一度あの快感を味わってみたい人、に朗報がある。その記事ではなんと、大人になってからでも夢精は可能だ、ということが書かれていた。例えば、刑務所に入っていて、規則正しい生活、適度な運動と食事、そして禁欲の生活を続けていると、中には夢精をすることができる人もいるらしい。それを日常の生活の場で実践すればいいのだ。私は20日間、四国を歩いて回ったことがあるのだが、そのときのひとつのささやかな目的がそれだった。遍路中はまさしく規則正しく適度な運動と食事で、そして禁欲の掟があるのであった。私はしめしめと一人ほくそえみながらそのときを待ったのだが、ついぞそれが訪れることはなかった。20日間ではだめだったのかもしれない。もうこれからはよっぽど節制しなければそんな機会はないであろう。その代わりといってはなんだが、うっとりとしたような夢をみることで満足することとしよう。