いつもこころに

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日々大切にしたいことを綴った日記です


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SNSが普及して、もう何年も前から感じている違和感。


こどもが具合悪いときの写真の撮影・掲載


数年前にもたまに居た。

具合が悪いこどもの写真をアップして、大変さや親としての気持ちを書いた投稿。

大変さや親としての気持ちを書くのは、自分の日記・備忘録としていいと思う。私も全神経を注いで看病して少し落ち着いた頃に書いたことはある。

でもね、

そこに苦しんでるこどもの写真は要るのだろうか?

例えば怪我とか発疹で外傷の経過を治療の為に撮るのは必要だと思う。あくまで家庭内や医療機関とのやりとりの為、こどもの為ならば。私もこどもの皮膚症状は治療経過記録の為に撮ることはある。

これって突発発疹かな?

という感じで、ママ友に相談したりする為に内輪で利用するのもいいと思うし、内輪じゃなくてママ同士の質問アプリとかでも、こどもの顔出しではなく症状の相談ならば問題ない。

だけど、熱を出して苦しんでる姿とか、発熱がなくても弱っててダウンしてる姿は、いらないと思う。

というか、撮影すること自体が神経を疑う。

目の前に苦しんでる子どもがいて、そこに携帯のカメラを向ける母親。

そしてSNSへのアップ。


私が子どもなら、

私が苦しんでるのに、ママはどうしてこんなところ撮るの?

って思う。


だから以前から、苦しんでる子どもの写真付きでSNSを更新する投稿を見たら、同情よりも嫌悪感を感じて、リアクションしなかった。

その頃は私と同じ感覚の人も多かったのか、それに「いいね!」と返す人も少なかったし、そういう投稿をする人自体が、「まぁ、ちょっとあの人ならそういう感覚ズレてるかもね」「看病してる私を応援して的な人だよね」という感じのごく一部の人だった。


そう感じていた頃から3〜5年経ったかな。


今では、同様の投稿をする人がかなり増えている。

親しい友達にまでそういう投稿をする人が増えて、むしろ私がおかしい?いやいや、そんなことないよね?と思うくらい。


我が子が苦しんでる時に平気でカメラを向けている人は、笑顔を撮るのと同じような感覚なのだろうか?

それも家族の記録?

うん。まだ家族の記録ならわかる。

怪我をして包帯巻いてる写真とかなら、時間が経てば、あぁ、この時こんなことあったよね。なんて話すことあるものね。

でもさ、SNSで他人に公開するのは全然意味が違うと思うの。

繊細な子どもなら、ある程度大きくなってから母親のしたことを知ったら傷つくと思うし、そうじゃない場合、親同様にそういうことになんの疑問も感じない、まさに同じ感覚の子どもが育つよね。

よく炎上してるような、撮っていいか悪いか、SNSにアップしていいか悪いか、判断つかない子どもに育つかもしれないよね。


それとも私の感覚・考えがイマドキ古臭いのかな…

私は苦しんでる子どもの写真を見た時は、リアクションしません。毎回、それを撮られた子どもの気持ちになって悲しくなるから。

一歩間違えれば代理ミュンヒハウゼン症候群だよ…



人様のSNSやブログの投稿を見て、時々もやっとすることがある。嫌とか否定とかまでのものではなくて、あくまでもやっと。

もやっと投稿にはいくつか種類があるのだけれど、そのうちの一つが写真(主に子ども)の投稿について。

子どもに関して、様々な悲しい事件に巻き込まれないよう配慮するのは親として私もわかる。

私も子どもの写真はフェイスブックでは友達のみの公開や一部の人のみの限定公開、不特定多数に見られるインスタやツイッターや個人のブログには原則載せない(以前このブログに載せたみたいな目を閉じてたり、後ろ姿や表情がはっきりわからないものは許容範囲)。

だからと言って、全部顔がわかる写真を載せている人を否定しないし、もやっともしない。その判断は親次第、家庭次第だから。

もやっとするのはその逆で、子どもの顔だけない首から下の写真や顔をスタンプや加工で潰した写真を載せている投稿。

後ろ姿とかうつむき加減とか、そもそも見えないアングルの写真はいいと思う。

けれど、可愛い我が子の顔をわざわざ潰すくらいなら、載せなくても良くない?と思ってしまうのだ。

首から下だけの写真にいたっては、私にとってはホラー。

昭和生まれの私が子どもの頃は、「身体の一部分が欠けてる写真は縁起が良くない」とまで言われていた。

そんな縁起でもない行為を親が自ら自分の情報発信の為にするくらいなら、載せなくても良くない?と思ってしまう。せめて子どもがうつむいてる写真にするとかさ…

芸能人とか有名人に多い写真だし、そういう人の子どもの安全に対する不安はわかるけれど、それでも、そんなに心配なら載せなくて良くない?子どもの頭切ったり、顔潰してまで子どもの服のコーディネート見せたり、成長を伝えたり…そこまでファンサービスしなくてよくない?と思ってしまう。

それを一般人でやっているのを見ると、尚更見せたいの?見てほしくないの?それより我が子の写真にそんなことするのは抵抗ないの?と不思議なもやっと感が。

なので、全部見せてる人の場合は清々しいくらいです。

で、その加工系写真のもう一つのもやっとが、我が子の顔は出すけどお友達全員消す写真。

これは、一緒に写っている子どもの親への配慮なんだなというのはよくわかる。人によってはむしろ投稿の際の「常識」とか「マナー」と言う人もいるだろうし、そういう人とのトラブルを避ける為に仕方なくやってる人もいると思う。

けれど、その子ども全員にタグ付けしたり名前まで公開するわけじゃないなら、本当にいるかな〜?と思う。

まだ私はされた経験がないけれど、我が子が一緒に写っていて、顔を潰されていたら、いい気持ちはしない。まして配慮してくれてありがとうとは。

加工アプリの機能が向上しているので、隠し方も可愛いらしいスタンプになったりはしてるけれど、それでもそこまでするならそもそも載せなきゃいいのでは…と思ってしまう。

まぁ、この2つめの件は人様に配慮する日本人らしい気遣いだと思う。

例えば、どこかのイベントに参加して、それが他の人の投稿から知り合いに漏れて、嫌な思いをして投稿した人に怒りの矛先を向ける人もいることでしょう。

でも、それは御門違いだと思う。

それが、絶対誰にも秘密のイベントで、参加者は全員それを守らなければならないルールとかではないかぎり。

SNS関係のトラブルや不満は、明らかな犯罪やルール違反を除いた大抵は「だったらSNSやらなきゃいいじゃん」というものだ。

私のもやっとも、だったら見なきゃいいじゃん。いいね!しなきゃいいじゃん。という程度のものなので、最初に書いた通り、嫌だとかその行為全てを否定するわけじゃない。どちらに対しても、その行為の意図はわかるから。

ただ、私個人は他人に写真を公開する為に我が子の頭をちょん切ったり顔を潰したり、また潰されたりっていう方が気持ち悪いな。というだけの話。

きっと私の感覚の方が少数派だというのも自覚があるのでブログにこっそり吐き出して、あえて今回はSNSにはシェアしないつもりの記事でした。たまたま目にした方が、不快になったらごめんなさい。

うちの子はまだ文字が読めない。

まだ3歳なのだから、特別なことでもないし、心配もしていない。


そろそろ、ひらがなくらいは覚え始めてくれないかな?と、最近少し遊びを交えて試してみたけれど、まだ興味はないようだ。


文字が読めるとこんなにいいことがあるよ。というのも、子どもにわかりやすい例えを用いてプレゼンしてみたけれど、まだ彼の心は動かせなかった。


けれど、それなりに話すし、歌もずいぶん長く歌えるようになった。


覚えきれてなかったり、使い方を間違えてたり、意味がわからなかったりするけれど、


音だけで覚えて、

自分の耳が捉えたものを再現して、

頭の中に描くのは映像だけなんだ。


と、子どもの今の脳の働きと身体への伝達状況を考えると、すごいことだよな。と思った。


なぜなら大人の頭の中では、耳が言葉を捉えた時、無意識にまず文字が、もしくは映像と共に文字が浮かぶようになっているのではないかと思うのだ。少なくとも私はそう。


私は聞き取りがイマイチなことがあるので、そんな時は昔から浮かんだ文字をさらに変換キーを押して、目で得た情報や前後の話との整合性を照合する。


頭の中で変換キーを押すイメージになったのは、もちろんワープロが登場してからのことで、その前は漫画の吹き出しみたいに次々に横に浮かぶ感じ。日本語は異口同音が多いから、漢字を思い浮かべることも多い。


でも、文字を覚える前の子どもには、それがないわけで。


大人より子どもの感性の方が、時に素晴らしく感じてハッとさせられるのは、そんな脳の働き方の違いもあるのかもしれない。


大人でも、貧しさや環境の違いで日本よりも識字率が低い地域の、言葉を音でしか認識していない人たちが、識字率の高い人にはない特技や能力を持っていたりするのは、もしかしたら識字に回している脳の働きが無い分、他のことに脳を使えているのかもしれないな。なんて思ったりした。目の見えない人が、音や匂いや触覚に敏感になったりするような。


全くオチもなければ私の仮説が正しいかも答えはないのだけれど、そんなことを考えたら、もっと我が子を褒めてあげよう。優しく接しよう。と感じた深夜の独り言。