東京人 新連載 中央線がなかった時代 1 対談 抄録 | カルチャースタディーズ研究所からのお知らせ

東京人 新連載 中央線がなかった時代 1 対談 抄録

対談 中央線がなかった時代

もしも中央線がなかったら。
陣内 「中央線がなかったら」という刺激的な視点ではじまる新連載ですが、これは、三浦さんと私の二人の共通の関心が、中央線沿線だったことがきっかけですね。
三浦 阿佐ヶ谷在住の陣内先生は、長年イタリアの都市の調査・研究をされ、最近では大学で日野の調査もしていますが、そしていま、原風景のある阿佐ヶ谷を研究したいとおっしゃる。僕は吉祥寺在住で、これまで吉祥寺、高円寺、に高円寺在住の方や、阿佐ヶ谷住宅などの取材をし、本をも出してきました。その過程で気がついたことが、中央線という鉄道が中央線沿線の地域を,ある意味で見えなくしているということです。
 けれど中央線は、東京都を東西にどーんと、しかもまっすぐに横断していて、それがあまりにも印象的なので、東京を考える時に、どうしても中央線を大前提にしてしまう。沿線に,書店、飲食店、サブカルチャー、ファッションなどの魅力的な集積があることも、鉄道中心に考えることを当然だと思わせてしまう。
 しかし、高円寺を広く歩き回ったり、阿佐ヶ谷住宅のあたりまで見たりすると、中央線からは離れたところに重要なポイントがあることに気がつくんですね。だから、中央線がなかったらこの地域がどう見えるか、という視点が面白い。
鉄道、沿線カルチャーという視点で論じ尽くされていました。それでブレインストーミングを重ねて出てきたものが、「中央線がなかったら」という考え方でした。
陣内 逆転の発想でしたね。
 山手線から外側の西に広がる中野区、杉並区、武蔵野市、多摩地域は、江戸の近郊農村だったところですが、明治末頃から昭和初期にかけて鉄道ができ、駅を中心に都市化が進みました。ですからいま、生活圏が成り立っているという理由で、鉄道を空間の軸に考える方が多いでしょう。でもその世界は、あとからつくられたものなんです。三浦さんがおっしゃるように、“逆転”させると本来の地域の深層がみえてくる。
三浦 いま、われわれぼくたちが対談を話しているところは、堀之内の妙法寺近くの寿司屋の二階ですが、こちらも高円寺駅から歩くと、三十分もかかります。だから高円寺駅の周辺が表で、妙法寺のほうが裏と考えられがちだけれど、歴史をたどれば、実はこちらが表で、あちらが裏。駅ができたところは、当時は何もなくて、土地が安くかったからて用地買収がしやすかったというだけの話でしょうす。妙法寺は青梅街道の鍋屋横丁という今も活気があるから入る参詣道を通って、江戸市中から厄除けのための参詣者たちが集っていた場所で、「江戸名所図会」にも描かれているます。古い歴史がある。網野義彦さんが日本地図の南北ををひっくり返すと、日本海が地中海のような内海に見えて、日本海違う文化圏と言うべきものが見えてくることを示したことがありますがと提唱した研究者がいましたが、そんなふうに中央線沿線の地域についても、新しい見方が提案できればいいなと思ったんです。
陣内 長年、近世(江戸)と近代(東京)を分断して歴史がとらえられていましたが、一九八○年以降、政治、生活、建築、文学などのさまざまな学術分野を横断し重ねて考えることで面白い成果がたくさんでてきました。それが江戸東京学であり、江戸東京博物館(一九九三年創立)の基盤になっていますが、運河や掘割など地形を生かしてできた江戸の都市構造を認識し、面白がって歩いてくれる人も増えました。
いっぽう江戸と東京をつなぐことに成功しても、山手線の内側ばかりに歴史を求め、郊外への視点は少なかった。さらに都心には、縄文時代の大森の貝塚や、麻布の善福寺、浅草の浅草寺など東京の中心部の重要なところに中世、古代のお寺や、神社、古道、遺跡の分布が身近にあるのに、存在が薄くてよく見えていない。それは近郊農村だった杉並区、武蔵野、多摩も同じで、もったいないことです。「中央線」を眼中からはずし、新しい視線で嘗めるように町を歩くことで、江戸の世界をはるかにこえた、中世、古代の大きな時間と空間のスケールで、東京の隠れた魅力が浮上すると思います。

川、湧水、神社、古道などから、
古代・中世の歴史を探る。
三浦 実際に、江戸以前の古代、中世の世界を探る手法として、まず先生が指摘される、川や湧き水(湧水)、神社、古道に注目する視点は、おもしろいと思いました。私も曲がりくねった道が好きですが、それが江戸時代、中世、古代からあるかと思うと、また街歩きの面白さが倍加します。
陣内 中沢新一さんは著書『アースダイバー』で、宗教空間、お墓を縄文地図にマッピングして、彼独自の視点で、東京の古層に光を当てています。いっぽう我々はずっと「古道」が面白いと思っていました。古道は、必ずいい場所に通っているんです。
三浦 実際に調査されたのは、いつごろのことですか。
陣内 一九九七年と九八年にかけて杉並区の調査をしています。紀元前一五○○年からローマに滅ぼされる紀元前三○○年まで続いたサルデーニャの文明の調査をしたことがきっかけです。その地域では、湧き水を大事にしてそこに聖域(後の時代も重要な場所となっていた)をつくり、それら聖域を結ぶ古道を今でも辿ることができました。日本に戻ってきて、湧水、聖域、古道に注視して杉並区で応用したら、見事に当てはまったんです。
三浦 僕は、川の暗渠をたどって歩くことも好きすきなのですが、「川」も東京の都市の構造を知る上で、欠かせないものですよね。
陣内 ええ。近代の開発で見えづらくなっていますが、東京にたくさんある川とセットにしながら地形に目をむけると、武蔵野や多摩にかけて本当の都市の骨格、風景が見えてくるんですよ。
たとえば杉並区でも桃園川は暗渠になっていますが、妙法寺川、善福寺川、神田川の四つの川が流れ、放射状になっている。
三浦 鉄道は近代になってからのインフラですが、地域の構造を決めていた、それまでの重要なインフラは街道と「川」なんですね。しかし昔の地図をよく見ると、街道などの道が川に沿って、山と谷の地形に沿って存在することがわかりますね。
陣内 そうです。人々の生活には水が必要なので、川の周辺の少し小高く安全なところに人間が住みます。しかも、東京は古来から崖線が多く、川沿いに侵食されて崖があり、そこに水が湧く(湧水)。すると、その近くに神社、聖域ができ、その周りに人が住み、近世の集落につながっていくのです。善福寺川沿いには、古墳、縄文、弥生の遺跡も発見されています。
大宮八幡宮がいい例で、善福寺川沿いのちょっと高いところにありますが、発見してうれしかったのは、境内に水が湧くんですよ。いまもペットボトルを持って水を汲みに行く方が多いようです。大宮八幡宮から北に向かって中世の古道が延び、その途中に松ノ木古墳があり、杉並区のもう一つの宗教の中心である阿佐ヶ谷神明とを結んでいます。さらに北にいくと円光寺があります。
三浦 大宮八幡宮は、一○六三年創建というから、その頃からの中世の古道を今も歩くことができるのですね。浜田山駅前には鎌倉通りという名前も残っていますね。僕がこの連載で担当するエリアのフィールドワークでは、歴史をさかのぼっていく意味で、東西にまっすぐな中央線に対して、南北に延びる、なるべく古い道を探しながら、新宿~中野~高円寺~方南町を歩いています。考えてみれば、鎌倉は東京の南にあるから、南北の道が発達するのは当然です。
陣内 南北方向の道は、中世、古代にはけっこうあるんです。それが放射状にでているところに、お寺や神社があります。
駅ができた場所は、それらがない、まっ平らなところ。つまり、人が住めないところだったのです。
三浦 それ、重要ですね。昔の人家は崖の途中下につくられていることが多くて、不思議でした。今の感覚では、ふつう丘の上の一番高いところからが眺めもいいし、いい場所だと思いますよね。
陣内 そう。でも古い時代はそうではなかった。玉川上水などが江戸時代にできてから、上がいい場所へと転換していくのであって、もともと斜面が一番よいところだったのです。そういう意味で、中央線がなぜここを通ったか理由はあるでしょうが、障害物や密度が低いところをうまく通している感じはあります。
三浦 建設もスピーディで、あっという間にできたらしい。
昔の駅について言えば、地主自身がつくったり、了解が必要ですから、彼らが好むところにつくられていると思います。今は技術も発達して電車の騒音はさほどでもなくなりましたが、昔の列車は、蒸気で走っていましたから、うるさいだけでなく、くて煙たいし、公害をまき散らすものだと思われていたのでしょう。だから、地主さんの家のあるあたりには通さなかった。にあたるものでした。
陣内 だからでも、中央線ができたことによってけちらかされたところって、あまりないでしょう。きれいに古代、中世からあった神社や寺をさけてつくられているのには、感心します。
三浦 環八沿いにある光明院というお寺だけくらいでしょうかねですね。墓地が南北に分断されている。
陣内 駅ができた場所に注目しておもしろいのは、国立です。谷保八幡宮は武蔵野台地の際にあり、その崖線に水が湧くんです。そこに平安時代、神社ができ、周りに農村集落が形成され、近世には川から水をひいた用水路をネットワーク化された水の里をつくりました。少し高いところに甲州街道が通っていますが、そこに中世と近世の塊があるのです。その北に、大正十五(一九二六)年、中央線(甲武鉄道)が入り、理想的な学園都市ができ、モダンな都市計画がなされる。
三浦 国立は、もともと駅をつくる前提でつくられた町ですからね。駅から放射状に街路がある。それに比べると、吉祥寺は、駅を中心に眺めると変な町です。きれいな街路があるのに、中央線に対して斜めになっている。おかしいなと思うんですが、考えてみれば、中央線のほうが後からできたんですね。本来の街路は井の頭通りと五日市街道に対して直角だから、中央線から見ると斜めになっているだけ。電車の路線があとから斜めに入ってきている。私は武蔵野市民で吉祥寺が武蔵野市の中心だと思っているのですが、
 それと、武蔵野市役所は、なぜ吉祥寺駅から遠いところにあるのかも疑問だったんですが、と思うわけです。その理由は、駅ができる前に吉祥寺の村がで開けていたのは、今の武蔵境の北のほうだったから当然なんですねということがわかります。駅は後からできたんです。これは三鷹市にも当てはまりますね。
陣内 三鷹は、玉川上水と駅が、鉄道が交差していますが、北と南で建物が並んでいる方向が違うんです。つまり北が玉川上水に対して直角で、南は中央線に対して直角に建つ。古いほうは規定がされ、玉川上水に直角に敷地がわられている。つまり、南側のほうが、整備された新しい町なんですね。

受け継がれる
都市の遺伝子。
陣内 おもしろいのは、駅前商店街ができるメカニズムに注目すると、だいたい古い道の上にできていることです。やっぱり人が踏み潰してきた往来がある道に、商店街のポテンシャルは高い。特に阿佐ヶ谷南口にあるパールセンターは、クネクネまがっていますが、ここは実は歴史あって、かつて「権現みち」と呼ばれ、北は子の権現様へ南は堀之内妙法寺へと大勢の人たちがお参りする道筋。大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に接続する鎌倉古道であるといわれているんですよ。戦時中に疎開で取り壊しされた空間を基礎につくられたケヤキ並木の中杉通りが対になってありますが、古道のほうは裏に隠れているように見えるでしょう? でも、そちらは個性ある店が建ち並び、ひじょうに濃密です。やっといまはバランスよく店ができてきましたが。
三浦 細い裏道にのような通りが、表通りとして活気がある例は、裏原宿の裏原宿といわれる隠田商店街、渋谷川遊歩道(キャットストリート)などにもあてはまりますね。しかし実はそれが昔のメインストリートだった。
陣内 ええ。そしてこのパールセンターの中ほどには、庚申塚があって、建物が立て替えられても、その一階にきれいに納まり、みんなが花を供えています。ここは古道同士が交差するところなんです。だから神社や寺など宗教的な施設はもちろん、庚申塚や、道しるべなどを丁寧に見ていっても、都市の基層が探れます。
三浦 あと、僕が町を歩くときに注目するのは、古い米屋、と酒屋、とタバコ屋、郵便局、クリーニング屋に注目するんです。だいたいそれらが地主の家の近くの辻にそろっている。あとはほかにも今は消防団。ですが、火の見櫓などが昔の地図を見るとあったりします。中にはこういう重要な辻の米屋や酒屋は、地主さんが、ここだけはいじりたくないという意思があるのかな、建物も看板も古いままだったりします。また、歩くとき、家の表札にも注意していると、その土地の地主さんが誰なのかも想像がつきますよ。