東京人連載 時代は女子である。 | カルチャースタディーズ研究所からのお知らせ

東京人連載 時代は女子である。

 時代は女子である。女性ではない。というのは私の定義だが、女性らしい女性が時代の担い手なのではない。従来の女性の枠を越えた女性、ある意味では男性化した女性、あるいは中性的な女性、でも一定の女性らしさも持ち続けている女性、それが現代の女子である。
 風俗流行的には、登山好きな山ガール、釣りが趣味の釣りガール、鉄道好きの鉄子(『東京人』元編集部の女性も鉄子だとか)、建築を学ぶ建築女子、数学を学ぶ数学女子などなど、近年いろいろな新しい女子が登場している。
 そういう女子のひとつの原点がジェイン・ジェイコブスではないかと、やや唐突だが私は思った。ジェイコブスの都市論は一種の「素人の乱」だった。男性的な、マッチョな都市計画、それは巨大なビルを、まさに男根的なビルを次々と建て、何車線もある道路をどんどんつくり、ちまちました建築、ごちゃごちゃした街をブルドーザーでつぶしていく。
 でも、そのちまちま、ごちゃごちゃが、面白くない? 楽しくない? というのがジェイコブスの主張だった。それはまさに女子的な主張、素人の皮膚感覚、日常感覚だったと言える。それはいい意味での女性らしさだと私は思う。上から目線ではなく、日常生活の感覚を重視する。巨大で非人間的で、経済のためだけに行われる都市開発よりも、子どもを育てる場所という視点で都市を見る。それはとても重要なことだ。
 『ジェイコブス対モーゼス』は、ジェイコブスが素人の皮膚感覚を武器に、ニューヨーク市都市計画の巨人、「マスター・ビルダー」と呼ばれたロバート・モーゼスと戦かった様を描いている。原題は『Wrestling with Moses』、つまりモーゼスとの格闘、取っ組み合い、あるいはプロレスとでも訳すと本書の内容を実感できる。
 ロバート・モーゼスはまさにその名の通り、出エジプトの予言者モーゼのように、都市に対して新しい戒律を作り、魔法のような力でニューヨークをつぎつぎと変えていった人物だ。一九八八年、ドイツ系ユダヤ人の裕福な家庭に生まれ、子どもの頃から、コックが料理し、召使いが給仕する夕食をシャンデリアの下で食べて育った。イエール大学に入学し、オクスフォード大学に留学し、帰国してコロンビア大学で政治学博士号を二五歳で取得。一九二二年にニューヨーク州知事に再選したアルフレッド・E・スミスの片腕となった。以後、知事が替わり、市長が替わろうとも、モーゼスだけは権力の中枢にいて、十三の橋、日本のトンネル、六百三十七マイルの高速道路、六百五十八箇所の運動場、遊び場、十箇所の巨大な公営プール、十七の州立公園をつくり、数十の市立公園を新設もしくは改修した。更地にした都市の総面積は市内で120ヘクタール。二万八千四百戸の高層住宅を建設。リンカーンセンター、国連ビル、シェースタジアムなどもモーゼスの手になる。1939-40年のニューヨーク万博も64-65年のニューヨーク万博も彼が仕切った。
 一方のジェイコブズは一九三四年、故郷ペンシルバニアの田舎町からニューヨークに出てきて、ブルックリンの小さなアパートに姉と同居していた。ある日、職を探して面接を終えると、ニューヨークの探索に出かけた。グリニッジ・ビレッジのど真ん中で、彼女はそこが自分の住む街だと直感し、事実それからずっとそこに住んだ。グリニッジ・ビレッジでは、道がいろいろな方向に向けて面白い角度で延びていた。ゴミが散らかった歩道に店の日よけが影を落としていた。食料品店のまわりでは子供たちが走り回っていた。建物は二、三階建ての簡素なものが多かった。そこらじゅうに人が溢れていた。おしゃべりをしている人、酒場に向かう労働者、普段着の女性たち、公園のベンチで座っている老人、玄関のポーチの腰を下ろして街を眺めている母親たち。「ここでは誰もが、見栄も、てらいもない、偽りなき人生を生きている」とジェイコブスは思った。
 飾らない都市生活の日乗を愛したジェイコブズが一躍時の人となるのは、モーゼスが進めようとしたワシントンスクエアサウスイースト都市再生プロジェクトに対する反対運動である。モーゼスは、ハーレムからワシントンスクエアまで南北に一直線で延びている五番街を、ワシントンスクエアの公園をつぶしてさらに延伸し、かつマンハッタンを東西に横断する十車線の高速道路、ローわーマンハッタン・エクスプレスウェイを建設しようとしたのだ。しかし公園のまわりには、当時、歩いて回れる距離の範囲に、百貨店、オペラ劇場、映画館、新聞社、美術館、大邸宅、タウンハウスなどがあったのである。そして何と言っても公園の中は人々の安息の場所だったのだ。
 ジェイコブズ対モーゼスの格闘の詳細は本書を読んで頂くとして、こうした、ちまちま、ごちゃごちゃした日常の些事を愛する女子の論理が、今、まちづくりにも店づくりにも、社会デザインにも必要とされていると私は考えている。そんなことを確信させた本が「女子の古本屋」である。
 女子の古本屋とは、あえてひとことで言えば、これまで男性社会だった古本屋で「女子ども」の本としてまったく軽視されていた本を、「かわいい」という基準ですくい上げた古本屋だと言えよう。たとえば、古い主婦雑誌、編み物や料理などの実用書、絵本、児童書などが「女子ども」の本である。しかしそれらの本は、男性向けの難しげな本にはない、しゃれた装丁がされていたり、きれいな色合いで印刷されていたりする。女子たちは、そこに目を付け、好きな本を並べたのである。それが売れた。そして広がった。
 私の生息地帯である中央線には、女子の古本屋が多い。私はそれらの店をいつも愛用している。ちまちま、ごちゃごちゃした生活が、私も好きだからである。
 ところが都心に出ると、ちまちま、ごちゃごちゃした店や街はどんどん再開発されてしまい、カードがないと入れない超高層ビルが建ち並んでいる。ジェイコブズなら嘆くに違いない。