読売新聞書評5 | カルチャースタディーズ研究所からのお知らせ

読売新聞書評5

 今回の震災・原発報道においてその実力をまざまざと見せつけたのはツイッター、フェイスブックなどのメディアである。「大本営発表」としか思えない政府、保安院、東電の会見がわれわれに不満を募らせる中で、ツイッターなどでは地震の発生直後から有用な情報が流れ続けた(もちろん誤報も流れたが)。それだけでなく被災者支援のためのさまざまな情報が提供されたのである。
 その担い手は主に若い世代である。思えば、わが国のNPO、ボランティアの元年はしばしば阪神淡路大震災だと言われる。当時、若者が多数、被災地の復興のための支援に訪れた。あれから16年のあいだに、日本にNPO、ボランティアを普通に行う市民が育ってきたことを今回の大震災ではっきりと感じることができた。みんなまったく肩肘張らず、当たり前のように支援活動を行っている。
 私のような世代は、NPO、ボランティア、市民というだけで、ある種の政治性を感じてしまう。本当は支援したいが、特定の政党、政治団体などと関係したくないという気持ちが邪魔をしてしまう。だが、現代の若い世代はもっと軽やかに支援活動を行う。反貧困ネットワークで一躍時の人になった湯浅誠の『活動家一丁あがり!』を読んでもそう思う。彼は市民活動が正しいからやっているだけではなく、楽しいからやっているのだ。
 福嶋麻衣子他著『日本の若者は不幸じゃない!』を読んでも同じようなことを感じる。福嶋は東京芸術大学を卒業後、現代アートのギャラリー勤務などを経て、秋葉原にアキバ系アイドルがライブコンサートを行い、給仕もするバー「ディアステージ」をつくり成功させた。1983年生まれである福島は、自分たちの世代は最初から「生まれて二十数年、ずっと不景気の中を生きてきた」「不況ネイティブ」だと言う。「お金がないこと、貧乏であることがすなわち不幸であるという感覚が、私にも私のまわりの若い人たちにもあまりないのです」と。
 だが、反貧困のための活動と、貧乏であることが不幸であると思えない不況ネイティブが共存する社会とは何なのか。その矛盾を解決する概念は「居場所」である。「私が日本の若者を不幸だと思わないの」は「居場所を確保して楽しく生きている人が多い」からだと福嶋は言う。湯浅がつねづね指摘してきたこともそれに近い。「『活動家』とは」「『場をつくる人』だ」。「その『場』とは、人々が受け容れられる場、立ち上がる力を身につける場、自由な意見交換が担保され、アイデアが湧き出す場だ」と湯浅は言う。
 その場所は、必ずしも物理的な場所である必要はない。人と人がつながる機会こそが重要だ。田中理恵子『平成幸福論』によれば、ヨーロッパでは29カ国4800万人が参加する「隣人祭り」があるという。祭りと言っても、地域の人たちが食べ物や飲み物を持ち合い、ともに話しながら食事をするだけだ。だが、それをきっかけに人間関係が広がり、長句的な相互扶助につながっていく。
 われわれの社会では、隣人と話しながら食事をするという機会さえ貴重なものになってしまったのだ。活動家もアキバ系ライブハウスも、その機会を提供しようとしているのである。