村上春樹『1Q84』 | カルチャースタディーズ研究所からのお知らせ

村上春樹『1Q84』

村上春樹『1Q84』

『1Q84』があれほど売れ、あれほど話題になったのに、文藝評論家たちはこの小説の社会性をあまり論じていないような気がする。唯一この小説を1960年代から70年代、80年代、90年代を経由して現在に至る社会的文脈の中で、かつ連合赤軍からオウム真理教まどの「若者の反乱」の文脈の中で論じたのは社会学者の大澤真幸だけだ(『THINKING「O」 』〈4号〉 特集:もうひとつの1Q84、左右社)。
 ところが大沢の分析ですら、『1Q84』が東京論でもあることをなぜか指摘していない。『1Q84』では村上春樹にしては珍しく実在の地名が多数登場する。そして「高円寺」にこだわっている。この小説は天吾と青豆という二人の男女が主人公だが、高円寺は天吾の住んでいる場所だし、登場人物たちは磁場に引き寄せられるように高円寺に集まってくる。対して青豆は「高円寺」とは(特に1984年当時には)まったく対照的な街である「自由ヶ丘」に住んでいる。だから、同じ東京にいながら、この二人はなかなか出会わないし、途中まではお互いが同じ東京にいるということさえ知らない。高円寺のアパートを根城にした独身男性と、自由が丘のアパートに住む独身女性の行動範囲は決して交わらないのである。
 1984年という時代を、新宿、高円寺に代表される中央線的な若者文化から、渋谷、代官山、自由ヶ丘に代表される東急線的な若者文化への転換と考えるのは、私のように1958年生まれで(大澤と同年齢)、84年に20代の真っ只中にあった人間には自明のことだ。特に私のように、中央線の、おしゃれとは言えない国立大学から、渋谷公園通りを造る企業に就職した人間にとっては、自明すぎる。

そこで9月25日に出る「高円寺研究本」で、東京と80年代と村上春樹に詳しい知り合いに原稿を書いてもらった。しかし紙幅の都合で3000字程度しか掲載できなかった。
そこで7000字バージョンを「東京人」10月10日発売号に掲載する。
さらに12000字バージョンをここに載せる。ただし推敲前の不完全原稿である。

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特別分析 村上春樹と中央線の呪い

「1Q84」の舞台はなぜ高円寺なのか? By 中念寺行男

●おやおや奇遇だというわけで
高円寺に隠れ家がほしいと思い始めたのはいつごろからだろう。古本好きとして、なじみの街ではあった。あるとき、都丸書店を出てガード下の居酒屋を通りかかると、軒先で初老の男性が生ビールを飲みながら本を読んでいる。別の日には、中年の女性が同じことをしている。パリではカフェに、高円寺ではガード下飲み屋に文化あり。中年男の私もこれに倣うことにした。一杯一読の後、銭湯にも行って軽く酔いをさまし、アパートで続きを読めたらいいなあ、などと思い始めたのが最初だろうか。
東京の西側には、隠れ家にちょうどころよいサイズと賑わいのまちがいくつかある。東急東横線なら自由が丘、小田急線・井の頭線なら下北沢。中央線では高円寺のほかに中野、吉祥寺など。それぞれによいまちだと思う。実はちょっと事情があって週に1回は自由が丘に立ち寄る。しかしこのまちは、どう考えても屈託のある中年男向きじゃない。それを改めて痛感したのは、「ヴィレッジ・ヴァンガード」の自由が丘店を見たときだった。ここは本と雑貨を店長や店員の好みでセレクトして並べてしまう面白い本屋で、高円寺にも、下北沢、吉祥寺にも系列店がある。フランチャイズとはいえ、コンビニなんかとは明らかに違って店ごとの個性が出る。自由が丘店はローラ・アシュレイの向かいのビルの地下にあるが、入るとすぐに綺麗な絵本の棚が並んでいて、奥の漫画コーナーには講談社の手塚治虫全集が大きなスペースをとっている。とても上品なのだ。高円寺店になると、入口には野良着姿のペコちゃん人形が「あたし決めた!お菓子屋やめて農業やるわ!」とお迎えしてくれる(今は違うバージョンになっているがこれが傑作だと思う)し、漫画コーナーには丸尾末広や古屋兎丸などスキモノ度の高い作家が並んでいる。ああ高円寺だなあ、と思う。下北沢店は高円寺店に近く、吉祥寺店は自由が丘店に近い。
中央線沿線では中野にもよく立ち寄る。中野ブロードウェイには一日いても飽きない。秋葉原と並ぶオタク文化のメッカだが、秋葉原より奥も深いし裾野も広いのだ。しかしこのまちの面白さは中野ブロードウェイという一つの建物の中に集約されてしまった感じで、路面の広がりがない。というわけで、隠れ家探しの足は高円寺に向かうのであった。
一軒目にたずねた不動産屋のオババは饒舌だった。趣味のために家賃3万円前後の部屋を借りたいと申し出ると、「ちょうどいいのがあったけど漫画家の人が仕事部屋に借りたばかり。あなた趣味って何なの?音楽?違うの?高円寺はミュージシャン志望の人が多いのよ。インスピレーションが湧くそうよ。いい物件出たら教えるからここに連絡先を書いて。ご家族の方はご存知なの?アーラそういうことなら携帯の番号がいいわねえ、ホホホ」。そういえば別の不動産屋のおにいちゃんは、「高円寺は芸術方面の方が多いですよ。お笑い芸人とか」と解説してくれた。むしろ「スキモノ方面」なんだよ。「ヨソモノ、ワカモノ、スキモノ」の三拍子が揃うと街が面白くなるという。高円寺はとくにスキモノ度が高いんじゃないか。自称他称の漫画家、ミュージシャン、芸人が生息しやすい。だからサラリーマンの私もこの街では少しだけ自由な気持ちになれる。
しかし隠れ家探しの道は険しかった。ある不動産屋のショーウィンドウでは、安アパートを紹介するコーナーの横に「40歳以上の方はお断り」と貼り紙してある。年齢差別は憲法違反だぞ。大半の不動産屋さんは親切だったけど、ステキなコピーと現実の落差は大きい。たとえば「歴史を感じさせる建物」のボロさは壮絶であった。不動産屋のあんちゃんは「和式トイレだけど介護用器具を買えば洋式として使えますよ」と助言してくれるものの、よけいに陰々滅々としてくる。その他、「閑静な住宅街の一室」はお仕置き部屋のように全く陽がささないし、「駅から濡れずに帰れる」部屋は要するに線路脇だし、世の中は甘くない。
それでもようやく見つけた。桜の木のある公園を二階から見渡せる古アパートだ。良質な古本のように良く手入れされた部屋で嬉しい。こうして私の高円寺隠れ家ライフが始まることになる。ところがある人から、村上春樹の『1Q84』第三巻は高円寺が主要な舞台であり、公園の隣のマンションが隠れ家として登場するらしいと聞いた。高円寺に引っ越してくる中年男性も出てくるという。おやおや奇遇だなと思い、さっそく『1Q84』を読んでみた。

●天吾の高円寺物語と青豆の自由が丘物語
 村上春樹をちゃんと読むのは久しぶりだ。若いころはずいぶん熱心に読んだけどね。そんな私には、村上春樹が高円寺を描くってどういうことだろうという素朴な疑問がまずあった。この人は、風景を観察して描写するというようなことを基本的にしない人だから。東京のどこかを描いていても、その場所ならではの唯一性みたいなものはあまり伝わってこない。そこは札幌でもニューヨークでも上海でもいい。都市化が進んだ国で、それなりの生活レベルに達した中間層であれば、おそらく誰もが「自分もそこにいる」と思える場所。どこにでもありそうで、どこでもない都市空間Xなんだね。これは、村上春樹の小説が世界的に売れる理由のひとつでもあると思う。
 そんなわけで、村上春樹はこれまで小説の中で実在の地名を最低限しか使ってこなかった。『アフター・ダーク』のように、新宿の一夜かなと思わせる背景でも、最後まで新宿とは言わず、もしかしたら渋谷かもしれないという含みを残したままにしておく。それが村上春樹らしい背景の描き方だ。この点で村上春樹は、永井荷風などとは対極的な作家なんだろう。荷風は都市風景の描写が心から楽しかったらしく、「わたくしは屢(しばしば)人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過ぎるような誤(あやまち)に陥ったこともあった」(濹東綺譚)と公言して憚らなかった。
 ところが『1Q84』では村上春樹にしては珍しく実在の地名が多数登場する。そして、なるほど第一巻から「高円寺」にこだわっている。この小説は天吾と青豆という二人の男女の恋愛物語が骨子になっているが、高円寺は天吾の住んでいる場所だし、登場人物たちは磁場に引き寄せられるように高円寺に集まってくる。もちろん村上春樹は永井荷風ではないから、それほど長いページにわたって背景にしていながら、まちの具体的で実感的な描写は皆無に等しい。個別の描写になると、やはり無個性でのっぺりした都市空間Xになってしまう。天吾と青豆がついに出会う児童公園はどこだろうと考えてみても具体的な手がかりは見つけられないよ。
ではどこでもよかったかと言えば、そんなことはない。『1Q84』の高円寺は、「場所」と言うよりも「記号」として重要なんだね。べつに難しいことを言いたいわけじゃない。あなたは高円寺と聞いて、どんなまちを思い浮かべるだろうか。何となく、共通するイメージがあるでしょう。それが「記号」としての高円寺。
もちろん人によって、世代によって、時代によって、高円寺という記号から思い浮かべるイメージは少しずつ違う。そこで村上春樹は、この小説における高円寺とは何か?をハッキリさせるために、なかなか芸の細かい工夫をしている。青豆の住まいを「自由が丘」にして、天吾の「高円寺」と対比させたのは、そういう工夫の一つだ。同じ東京にいながら、この二人は『君の名は』のハルキとマチコのように、なかなか出会わないし、途中まではお互いが同じ東京にいるということさえ知らない。二人は、十歳のときに一度出会い、それから三十歳になる1984年の今に至るまで、一度も会っていないという設定になっている。高円寺のアパートを根城にした独身男性と、自由が丘のアパートに住む独身女性の行動範囲は決して交わらない、というわけ。
実際、1980年代初頭の高円寺と自由が丘は、別世界みたいなものだったと思う。少なくとも若者やメディアから見て対照的なまちだった。高円寺はそもそも神田・お茶の水、新宿が若者文化のメッカだった1960年代、中央線沿線に広まっていった若者のまちのひとつだ。60年代の若者は「思想」や「革命」に魅了されていたから、若者のまちというのは、反体制、カウンターカルチャーの拠点だった。「だった」と見て来たような書き方をしたけど、私自身は60年代末でもまだ小学生で、さすがに同時代体験ではない。それでも、子供部屋の窓から覗ける某都立高校の校舎に「○○反対」「××を要求する」などの垂れ幕が見えた(当時は高校にも学生運動が波及していた)し、大学とは石を投げてケンリョクと闘争する場所であろうなどと想像していたもんだ。父親に連れられて、立て看板の並ぶ早稲田大学の構内を見学したこともある(今思えばなぜそんなところに子どもを連れて行ったんだろう?)。
しかし「思想」や「革命」の魅力は70年代には色あせてゆき、それに代わって「ファッション」や「恋愛」に若者の目が向き始める。私が大学に入った70年代末には、すでに大学のレジャーランド化なんてことが言われていたよ。で、80年代初頭は社会人になったばかりのころだけど、もうすっかり、「ファッション」と「恋愛」の天下だった。
高円寺と中央線沿線は、60年代的なものをひきずっていたぶん、この時流には乗り遅れてしまったんだね。80年代初頭に若者の支持を得ていたのは渋谷や青山通りであり、東急東横線の代官山や自由が丘だった。高円寺は、控え目に言ってノーマークのまちだったし、流行過敏症な若者なら「ダサい」「クライ」(今の用語で言えば「いけてない」か?)なんて評価を下したかもしれない。当時の高円寺は、古着ブームやプレカリアートで注目されるようになった最近の高円寺とは違う。ここを読み違えると、村上春樹が入念に作り上げた記号の体系がわからなくなってしまうから注意。
東京西側の主要な街の地図  手書きで書き直し


『1Q84』の一巻・二巻は、青豆の物語と天吾の物語を1章ごとに切り替えて語り進めていく。青豆の「自由が丘物語」と天吾の「高円寺物語」が交互に編みこまれていくと言ってもいいかな。青豆の行動範囲には、「自由が丘」のアパート、「広尾」の高級スポーツジム、「麻布」のお屋敷、「渋谷」のホテル、「赤坂」や「六本木」のバーなど、当時のファッション雑誌やマスコミがそれこそオシャレなまちの記号としてもてはやした地名が満載だ。スポーツインストラクターを職業とする青豆の物語の背景はいかにも80年代的な世界なんだね。
それに対して天吾とその関係者の行動範囲は、取り壊し寸前の「高円寺」のアパート、「新宿」の中村屋、「代々木」の予備校、「信濃町」の別宅、「立川」から青梅線を乗り継いだ「二俣尾」のお屋敷など、中央線沿線に限定されている。予備校で数学講師をしながら小説家を目指している天吾は、(当時の感覚として)一昔前の若者に近い60年代的なこだわりの世界に生きている。そりゃ二人はなかなか出会わないよなと、80年代初頭の東京を実体験した人なら腑に落ちるだろう。

●これが振り出しに戻るということなのか?
80年代的な世界を背景とする青豆の物語は、美しい外面(肉体)と、むしばまれる内面(心)の葛藤が主要なモチーフになっている。ファッションと恋愛という80年代的な流行に対する村上春樹流の批判なんだろうね。青豆は中産階級の家で育ったが、宗教活動に熱心な両親と折り合いが悪く、心に大きな傷をもったまま大人になったという設定。村上春樹の小説によく出てくるタイプの女性だ。青豆に個人レッスンを依頼する麻布の老婦人は、アンチ・エイジングに熱心で、年齢を感じさせない筋肉の柔らかさを持っているし、高価な整形手術も受けているらしい。しかし優雅で端正なこの老婦人も、娘がエリート官僚の夫によるDV(ドメスティック・バイオレンス)で自殺に追い込まれたという心の傷を負っていた。似たような境遇の女性を保護するセーフハウスを運営しながら、女性を虐待する男性に憎しみを抱いている。
そんな麻布の老婦人の秘密の依頼で、青豆はDVをふるう男性に私的な制裁を加える、つまり暗殺する仕事を引き受けている。青豆が行きずりの男と激しいセックスをしたくなるのは、人を殺した後だ。結局、青豆はカルト宗教団体のリーダー暗殺をきっかけに逃亡の身となり、老婦人の手配で自由が丘のアパートを引き払い高円寺のマンションに身を隠すことになる。そしてベランダ越しに見下ろせる児童公園に天吾の姿を見かける。第三巻の青豆は、来る日も来る日もベランダから公園を見下ろし、天吾との再会を待つ。青豆にとって高円寺は天吾と出会って内面の荒廃から救われるための場所だ。
『1Q84』にはもうひとり、高円寺へやってきて自分を取り戻す人物が出てくる。それは牛河という元弁護士の男で、カルト宗教団体の手先として青豆を追う役割だ。牛河は一巻・二巻では脇役に過ぎなかったけど、三巻では彼の視点から描く章が独立して立てられるほど重要な人物として登場する。その牛河の過去は回想として次のように描かれている。地方都市の富裕な医者の家に生まれたが、美形ぞろいの家族の中でなぜか彼一人だけ容貌が醜く、屈折した性格になっていった。しかし頭脳明晰で弁舌巧みだったから、高収入の弁護士として成功し、中央林間に庭付き一戸建ての家を買う。見栄えの悪くない妻、私立小学校に通う二人のかわいい娘、ピアノの音、血統書付きの犬。絵に描いたように幸福な家庭をつくる。ところがある事件をきっかけに弁護士免許を失い、離婚して一人になってしまった、というものだ。
「中央林間」もまた80年代に大きな意味を持つ記号だよ。当時、郊外に一戸建てを買い始めた団塊世代を主役としたTBSのドラマが人気を得ていた。『金曜日の妻たちへ』(83―85年)三連作の二作目にあたる1984年放映版は中央林間が舞台という設定だったし、『金曜日には花を買って』(86―87年)は実際のロケを含めて中央林間を舞台とした。中央林間の駅は田園都市線の終点にあたるけど、この終点までつながって全線開業するのが、まさに1984年なんだね。園都市線沿線の住宅街は、東急グループが「第二の世田谷をつくる」という考え方で開発したニュータウンだったから、山の手風のオシャレなまちという記号性を帯びていたんだ。牛河にとっての「中央林間」は、青豆にとっての「自由が丘」と同じようなものだった。牛河は、二人の娘が小学生だとされているから、多分、当時において30代後半くらいの団塊世代なんじゃないか。つまり作者の村上春樹と同世代。
牛河が高円寺に引っ越してくるのは、青豆の居所を探るためだ。天吾と青豆の古いつながりを調べ上げ、とりあえず天吾を監視するために同じボロアパートの1階に部屋を借りる。ある日、天吾のアパートに泊まっていた美少女ふかえりの射るようなまなざしに接して、長らく忘れていた内面を取り戻す。それは「痛み」の感覚であった…というのが、小説での描き方。
しかし牛河が団塊世代だとすると、別の読み方もできそうだよ。高円寺は、60年代末、つまり若いころの団塊世代にとってのメッカみたいなまちだ。収入も地位も家族も失った牛河は、人生をリセットするために高円寺に「戻ってきた」のかもしれないんだね。実際、高円寺のボロアパートの一室で寝袋にくるまり、寒さに凍えながら、すべてを失ってむしろ「ほっとしたくらいだ」「また振り出しに戻れたんだ」「これが振り出しなのか?」「これが振り出しに戻るということなのか?」と鬼気迫る自問自答をくりかえす箇所がある。ルビは原文のままだよ。こうして振り出しに戻った牛河さんの末路は、ちょっとあまりにかわいそうで書きたくない。私は団塊世代じゃないけど、中年男としては一番シンパシーを感じた人物だからね。

●1Q84に隠された二つの年号
青豆や牛河と違って、60年代的な「高円寺」をずっと根城とする天吾は、最初から内省的な人物として描かれている。しかし思想や信条は持っておらず、自分には何かが欠けているという欠落感、喪失感を感じて生きている。これも村上春樹の小説によく出てくるタイプの人物で、ほぼ自画像に近いんだと思う。たしかに80年代初頭にはすでに「革命」などの思想や信条にリアリティはなかった。しかしこの小説で高円寺と中央線は60年代的なものをひきずるまちとして記号化されているから、お約束どおり、天吾は60年代の亡霊と出会うことになる。その導きをするのが、美少女ふかえりの育ての親で、奥多摩に隠棲する元大学教授の老人であった。奥多摩の老人は、青豆にとっての麻布の老婦人と同じ役回りで、天吾をカルト宗教団体との軋轢に巻き込んでいく。老人は、カルト宗教団体は60年代の学園紛争から始まったある団体の末裔であると天吾に打ち明ける。
この団体は、村上春樹が「1984年」と「1Q84年」を区別するために作りだした架空の存在だ。1984年と1Q84年は一種のパラレル・ワールドということになっており、青豆は小説の冒頭、三軒茶屋で1Q84年に迷い込んでしまう。小説の最後は天吾と二人でやはり三軒茶屋から1984年に帰ってくる。三軒茶屋を中心にして高円寺と自由が丘は南北にほぼ点対称に位置しているから、ここにも律儀な対比が見られるんだけど、それはさておき、パラレル・ワールドはこの団体の話を除けば、他はそっくり同じということになっている。
老人の打ち明け話によれば、1960年代(1Q60年代と言うべきかな?)の学園紛争の時代、老人の同僚で「革命」の理論を掲げた大学教授が、急進的な学生をひきつれ、山梨県の山中で農業共同体を作った。有機野菜など都市住民の嗜好にマッチした農産物でそれなりに成功したが、70年代になり、革命の現実性が薄れてくると、飽き足りない気持ちをもつ過激なグループが別行動を始める。穏健派と武闘派に分裂してしまうのだ。武闘派は警官隊との銃撃戦のはてに1Q81年、壊滅する。一方、穏健派はいつのまにか、カルト宗教団体に変貌していく。若くて専門能力をもった多くの若者をひきつけ、ハンサムなスポークスマンもいる宗教団体だが、いかがわしいうわさもつきまとう。拉致や幼女虐待の疑いもある。1Q84年、天悟と青前はべつべつの理由でこの宗教団体にかかわっていく。
容易に見てとれるように、この団体は連合赤軍とオウム真理教をミックスしたような団体だ。60年代の学園紛争から生まれた過激派の連合赤軍は、長野の山中で警官隊と銃撃戦を演じた。いわゆる「あさま山荘事件」(72年)は日本中にTV放映された事件だ。80年代から活動を始めたオウム真理教は、山梨の山中に拠点を作り、無差別テロの「地下鉄サリン事件」(95年)でやはり日本中に衝撃を与える。高円寺は60年代の学園紛争と係わり深かっただけでない。90年代前半の高円寺にはオウム真理教の関連会社が経営するラーメン屋があって、住民と軋轢を起こしていたりした。1984年ならぬ1Q84年の高円寺は、60年代的なものを引きずりながら、90年代初頭までを先取りしているわけだ。
1Q84年とは、1972年(あさま山荘事件)と1995年(地下鉄サリン事件)を文学的想像力の中で一つに溶かしこんだ、想像上の年号なんだろう。『1Q84』のタイトルはもちろんジョージ・オーウェルの小説から来ているのだけど、「二つの病理、二つの事件を同時に乗り越える」という村上春樹のメッセージも込められているのだと思うよ。

●「軽さ」の代償として失ったもの
村上春樹は団塊世代で、早稲田の出身だから、当然ながら60年代末の学園紛争を身近に経験している。地下鉄東西線は1966年に荻窪、68年に三鷹までつながったから、彼が学生時代にはすでに早稲田から高円寺まで直通で行けたわけだ。実際彼は1970年代に高円寺駅南口のジャズ喫茶「as soon as」に勤めていた(●ページ)。
そして、よくその近くの公園に散歩に行っていたらしい。それはおそらく高円寺南四丁目の高円寺中央公園だろう。『1Q84』に出てくる公園も「環七の車の音がかすかに聞こえる」から、間違いない。その後彼は高円寺から中央線を下った国分寺でジャズ喫茶を経営した。

●村上春樹の「軽さ」が長持ちした理由
村上春樹は団塊の世代で、早稲田の出身だから、当然ながら60年代末の学園紛争を身近に経験しているだろう。ちょっと調べてみたら地下鉄東西線は1966年には九段下―荻窪(中野でJR乗り入れ)でつながっているから、彼が学生時代にはすでに早稲田から高円寺まで直通で行けたわけだ。彼自身、高円寺に住んでいたことがあるかもしれないし、少なくとも友人が住んでいたとかいう可能性は高い。小説家になる前は、高円寺ならぬ国分寺でジャス喫茶を経営していたようだから、いずれにせよ中央線沿線には土地勘があるはず。高円寺・吉祥寺・国分寺はかつて「三寺」などと呼ばれて、60年代的な若者文化を代表するまちだった。
しかし彼自身は学園紛争には最初から距離を置いていたらしい。70年安保が終わり、思想や信条が暴力と狂気に転化していく過程には、むしろ嫌悪感を抱いたのではなかろうか。もちろんこのへんは後付けの推測で、本人に確認した話じゃない。1979年の『風の歌を聞け』のデビュー以来、彼の作品自体が雄弁に語っていることだと思うのね。このデビュー作は、当時20歳前後の大学生だった私やその周辺の友人たちの間には、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたよ。ついに60年代的なものを抜け切った作品が現れたっていう感じ。思想や信条の重みを抜いた「軽さ」と、何かが欠落しているという「喪失感」が村上ワールドの魅力だった。具体的な背景描写の重みを抜いた村上春樹的な都市空間Xも、軽くて、そのかわりどこか寄る辺ない。「これこそ今私たちのいる世界だ」という感触だね。
で、村上春樹は80年代に一挙に人気作家に上り詰めていくんだけど、時代に恵まれた面は大きかったと思う。それはどんな時代だったか。社会学者の見田宗介は「戦後日本人の感覚の歴史」の中で、戦後から1960年までを「理想」の時代、高度成長期をへて1973年の石油ショックまでを「夢」の時代、それ以降を「虚構」の時代と呼んでいる。たしかに日本人は70年代後半あたりから、「理想」や「夢」に向けて現実を改革していくという気運が薄れていったのかもしれない。「虚構」の時代というのは、社会学者としての時代に対する批判だね。小奇麗な見せかけの世界、極端に言えばディズニーランドのようにキレイでカワイイ空間の中に自足し、現実の問題をできるだけ見ないようにする、そんなふうになっていないかと。三浦展はこれをもう少し大衆レベルの言葉に置き換えて「軽さ」を求める時代だったと言っている(『ニッポン若者論』)。村上春樹の「軽さ」も、こういう時代の雰囲気とマッチしていたわけだ。見田宗介は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に触れながら、「週末のような終末」とその「軽さ」を揶揄したこともあったな。
もちろん村上春樹の「軽さ」は、こう言ってよければ戦略的な「軽さ」で、いつも「喪失感」とセットになっていた。60年代的な重さのもたらした狂気と暴力を「軽さ」で乗り越える(その代償が喪失感だ)のが村上春樹の文学のはずだった。やはり同じ団塊世代で、80年代に活躍したコピーライターの糸井重里の「軽さ」も似たような戦略だったかもしれない。ポスト・モダン思想でもてはやされた浅田彰の「軽さ」もそうだろうし、ブランド名ばかりで小説を書いてしまった田中康夫もそうなんだろうね。今思えば、この人たちの「軽さ」のほうが、村上春樹よりずっと過激だった。その代り、廃れるのも早かった。そこへいくと村上春樹の「軽さ」は、「喪失感」を大事にしていたから、すごく長持ちしているんだと思う。

●結局、「愛」ということ?
しかし村上春樹が人気作家として80年代的な「軽さ」に一役買っていたのは事実。彼自身としては何だか複雑な気分だったんじゃないかな。80年代末に書かれた『ノルウェイの森』にひときわ色濃くただよう「むなしさ」や、『1Q84』での青豆の物語の描き方を見るとそんな気がしてくる。そしてその複雑な違和感は、1995年の地下鉄サリン事件で頂点に達したのではないかと思う。
80年代的な「軽さ」で時流に乗った多くの人たちは、95年あたりを境に、表舞台から消えていくか、「軽さ」から「転向」するか、いずれかの道を歩んでいる。ボランティアや政治に目覚めた田中康夫、アカデミックな領域に専念し始めた浅田彰、中沢新一は「転向」組かな。ところが村上春樹はこのいずれとも違って、自分のスタイルを守りながら、「軽さ」を問い直すという第三の道を選んだ。
その手始めが、サリン事件被害者へのインタビューに基づく『アンダーグラウンド』という長大なノンフィクションだろう。村上春樹はそのあとがきで、90年に初めてオウムの選挙活動を見たときに「思わず目をそらしてしまった」と告白している。心理学的に言えばそれは他人事ではないという感じがあったからだろうと自分で分析している。麻原彰晃の提供する「ジャンク(まがいもの)としての物語」の「軽さ」は村上春樹の洗練された物語の「軽さ」とは全然違うものだ。しかし、多少深読みして言えば、自分の文学の問題として他人事でないと感じたのではないかな。狂気と暴力を「軽さ」によって乗り越える自分の文学は間違いだったのか。「軽さ」もまた、狂気と暴力の温床になりえるのか。世間の評価はともかく、この人は作家としての社会的責任みたいなことを非常に誠実に考えている人だと思うよ。
そこで『1Q84』では、1972年と1995年を同時に乗り越えられるような「芯のある軽さ」を目指したんだと思う。天吾は、高円寺で、60年代的な亡霊を「軽さ」によって追い払うだけでなく、その後の空っぽになった内面を何によって満たすか、改めて内省を深めなければならない。第三巻で、房総半島の老人ホームで死に向かう父親との関係を長々と内省するのも、そういう試行錯誤の一つなんだろう。同時に、80年代的な「軽さ」は内面を取り戻さなければならない。それが「自由が丘」や「中央林間」から「高円寺」へやってくる青豆や牛河の物語だった。
ではその「芯」って何だろう。思想や信条、あるいは歴史や伝統の重みを抜いた後、空白はどうやって満たされるのだろう。「存在の耐えられない軽さ」にどうやって耐えるのか。その答えが、第三巻の終わり、1Q84年の高円寺の児童公園の滑り台の上で、二十年ぶりに手をつなぐ天吾と青豆のシーンなんだろうね。一対の完全に結ばれた男女の「愛」、一般化して言えば、人間の絆だろうか。二人はその後、パラレル・ワールドから脱出して1984年に戻る。小説的にはここで「高円寺」という記号の役割は終わったようで、最後は、赤坂のホテルで、心身ともに満たされるセックスをする。ここは読者サービスってことかな。
この終わり方でちょっと気になるのは、読み方によっては、90年代のオタク文化から生まれた「セカイ系」みたいに見えてしまうことだね。世界の深刻な問題よりも、「キミとボク」の二人の関係のほうが重要だという。そういえば、暗殺者として一人果敢にカルト宗教団体に挑む青豆は、「世界の敵」と戦う「戦闘美少女」の大人版のようだし、内省的な天吾は、「無力なボク」の大人版のようだ。村上春樹の「軽さ」は、やはり一歩間違えると、「ジャンク(まがいもの)としての物語」に近付いてしまうのか。

●ヨソモノ、ワカモノ、スキモノが「縁」を結ぶ
このへん、小説論としてはいろんな読み方があるだろうし、いろんな議論があるだろうが、今の私には2010年の高円寺が興味深い。『1Q84』の高円寺は、90年代後半からの、今につながる高円寺まではカバーしていない。しかし小説の外に出て考えてみると、村上春樹はまさに今、高円寺を舞台にした小説を書いたんだね。村上春樹さん、あなたにとってなぜ今、高円寺だったんですか?ってこと。
まあ、会ったこともない村上春樹の人生を憶測ばかりしていても仕方ないので、自分のことから話してみよう。最初に書いたように、古本の好きな私は昔から高円寺にはよく訪れていた。でも80年代には、何かレトロなまちっていう感じだった。小さい古本屋にも大月書店の函入りマルクス・エンゲルス全集が揃っていたりして、おおっ60年代だなあなんて感慨を催したり。ほとんど遺跡発掘に近い面白さ。
個人的には、このまちがビビッドに面白いぞと感じ始めたのは、自分よりずっと下の世代の若者が目立ち始めた90年代後半から。中年男だから、若者の古着ショップなんかは本来、自分には直接の関係はない。それでも私には彼らのやっていることが面白くてしかたない。ドクロマークのTシャツなど個人的なツボにはまると、今でもつい物色してしまう。いまどきの若者はやさしいから、オッサン帰れみたいな顔は決してしないよ。若い人が経営する新しい古本屋も楽しい。こないだふと覗いた店では、おすすめ本で、アシスタント漫画家のまま中年男になってしまった人の自叙伝が置かれていた。そうとうなスキモノだねキミもと若い店主の肩をたたきたくなったね。
不思議なことに、若者が集まって何か新しいことを始めると、まちは面白くなる。しかもこのまちは、見栄えやお金よりも、好きなことにこだわって、そういう仲間をつくって、無理なく生きていこうっていうタイプの若者をひきつけるんじゃないかな。お金がないから高円寺に来たっていうのもあるだろうけど。かつて「中央線のインド」とも呼ばれた高円寺は、昔からスキモノ系のワカモノに愛されているんだね。そしてそのまま住み着いてオジサンになる人もいてといった積み重ねの上に今の高円寺がある。知り合いに、もう若いとは言えない年齢の自称ミュージシャン(アルバムも出しているから自称は失礼か)がいて、ほとんどバイトで生計を立てている。この男とその仲間たちも高円寺を根城にしている。
若者といえば、「素人の乱」も高円寺の名を高めた。先方はもう覚えていないだろうけど、実は、中心人物の松本哉さんとは一度だけ話をしたことがある。失礼ながら想像していたよりずっとちゃんとした社会人だったよ。松本さんは下町の生まれで、高円寺にはリサイクルショップを開くために来た。地元の商店街の顔ききのお爺さんは、「自分も元はと言えば外から来たヨソモノだから」と言ってフランクに応じてくれたらしい。
彼の言葉でもうひとつ印象的だったのは、「孤独はお金がかかる、仲間で生きれば安上がり」の一言。彼自身、シェアハウスに住んでいるし、そもそもリサイクルショップっていうのは、モノを介して人と人がつながる方法だ。とはいえ、この仲間は流動的で出入りが激しいそうだ。来るもの拒まず、去るもの追わず。彼のキャラクターもあるのだろうけど、ヨソモノがゆるい「縁」でつながっていける、これも高円寺の面白さなんじゃないかな。逆説的のようだけど、高円寺はひとりごはん、ひとり飲みのしやすい店が多い。お馴染さんを適当に放っておいてくれる、というひねりのきいた縁。まとめて言えば、ヨソモノ、ワカモノ、スキモノがゆるい縁で結ばれたまち、これが今の高円寺だね。三浦展さんの言う「高縁寺」は秀逸な表現だ。
80年代の「軽さ」は、95年の地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災といった「重い」事件によって消し飛んでしまった。90年代後半以降の若者たちは、「縁」や「絆」に救い求め続けてきたのかもしれない。若者だけじゃない、日本人全体の意識がそういう方向に向かっている気がする。「縁」を求める時代だね。80年代の高円寺は時流に乗り遅れたまちだったけど、今や時代を代表するまちなのだ…というのは贔屓の引き倒しだろうか。

●人生をやり直すために戻ってくる場所
村上春樹は最近の高円寺の事情にどれだけ通じているのだろう。ちょっとヒントになるかなと思うのが、2004年に出された『アフターダーク』だ。ある都会の繁華街での一夜が舞台で、前に「新宿のようでも渋谷のようでもある」と書いたけど、新宿かなと思ったのは、主要な人物の男の子が「高円寺から来た」と言っているからで、渋谷かもと思ったのは、もう一人の主要人物の女の子のほうが「日吉から来た」と言っているからなんだね。高円寺の男の子はバンドをやっている学生で、日吉の女の子は郊外の中産階級に育った少し屈折した子。天吾と青豆の原型みたいなものだ。
ひょっとすると、村上春樹はこのころから「高円寺」に目をつけていたのかもしれない。高円寺は60年代をひきずっているだけじゃない、バンドなんかをやっているすこしこだわり系の若者にとって人気らしいといった程度の感触を得ながら。「高円寺」という記号を他ならぬ今使うことには、同時代的な意味がありそうだという作家の直観があったんじゃないか。この人は時代の流行を小説に取り入れるような作家ではないけれど、長い間にわたって流行作家であり続けているゆえの鋭い嗅覚ってやっぱりあると思うのね。
もちろん、最近の若者と違って、村上春樹のような団塊世代は、高円寺には60年代からの因縁がある。95年の地下鉄サリン事件を契機に、「軽さ」の病的現れをどう乗り越えるのか、考え始めたとすると、その段階で中央線や高円寺のことが思い浮かんでも不思議はない。もともと村上春樹の「軽さ」は60年代的なものに対する屈折だから、「軽さ」を問い直してリセットするなら、是非とも、そこまでさかのぼる必要があった。
高円寺の縁のネットワークは、こういうふうに上下というか、タテ方向にも働く。60年代から70年代初頭に若者だった人たちの多くは、村上春樹ならずとも、それぞれの屈託を抱えながら生きてきたんじゃないだろうか。そういう人たちが中年から初老に及んで、ふと戻ってきたくなる場所が高円寺なんだと思う。紋切り型に言えば、かつて革命の可能性が議論されたまち、同棲時代のまち、青春のまちとして。『1Q84』の牛河の呟きを借りれば「振り出しに戻る」場所。懐かしいといった軽い感傷で来る人もいるだろうし、中には人生をリセットしたいという深刻な願望を抱いて来る人もいるだろう。
こないだ、カウンターだけのある飲み屋でひとり飲みしていたら、隣の団塊世代くらいと思しき二人のおじさんが高円寺の今昔をしきりに話し合っていた。うち一人は「センセイ」と呼ばれていて物書きらしい。聞くともなしに聞いていると、このセンセイはかつてずっと高円寺に住んでいて、ひところ別のところに住んでいたけど最近戻ってきたみたいなことを喋っていたよ。マスターとは昔住んでいたころからの知り合いらしい。
で、私自身は、団塊世代ほど深い因縁が高円寺にあるわけではないし、もちろん若者でもないという中途半端な中年男だ。60年代とは臍の緒程度につながっているに過ぎない。70年代末から80年代にかけて、「軽さ」へ向かう時代を若者として生きて、あの「軽さ」って何だったんだろうという屈託をいまだに抱いている。いろんなスキモノを受け止めてくれる高円寺なら、ちょっと自由になれるかなといった程度の気持ちでひきよせられてきただけ。しかしこれもまた、一種の人生リセット願望かもしれない。中央線と高円寺の魔力、おそるべし。
まあ何であれ、高円寺は楽しいよ。屈託を抱くすべての老若男女のみなさん、高円寺へいらっしゃい。このまちの空気を吸うだけで、あなたは今よりすこしだけ自由になれる。で、どこかで私とすれ違うかもしれない。袖触れ合うも多生の縁ってね。