殉国英霊の聖地 | ロードのブログ

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「今日は定時の日ですよ。」
忘れてましたが、給料日は定時の日になったんでした。

予定を立てていませんでしたが・・・、三ヶ根山に行こう!と思いつきました。

会社帰りに登山なんて夢にも思わなかったのですが、
ぼくは早朝出勤しているので、定時は、3:30になるのです。^^

登山道まで、会社から15分! 近いですね。
延々と続く急坂を登りきると、三ヶ根観音に出ます。

高台に上がると、比島観音があります。
比は、フィリピンのこと。
比島観音は、大東亜戦争で亡くなった50万の英霊を見つめています。

後で気づきましたが、ここでは観音様に手を合わせるのではなく、
比島観音と同じ方を向いて、手を合わせるのが正解なんでしょうね。


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綺麗に手入れされた庭を抜けると、美しい三河湾が眼下に広がります。
桜もまだ残っています。

近くを三ヶ根スカイラインが通ってますが、平日でもあり、通行量は0で、
とても静かな雰囲気です。


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下山途中、殉国七士の墓があります。
登山コースではないので通り過ぎようとしたのですが、
道に迷い、・・・いえ、
かつて見たことのない巨大な石門を抜け、吸い込まれるように墓に向かいました。
そこで目の当りにしたのは、東条英機らA級戦犯として処刑された、
7名の遺骨を納めたお墓でした・・・。


ますます日本が好きになる今日この頃、
日曜には、明治天皇の玄孫であり、国士である竹田先生の、愛知竹田研究会にも参加しました。

その翌々日に、偶然にも、東条元帥の墓に出会うとは・・・、
いつも会社から眺めていた山に、殉国者の墓があるとは・・・、

さらに慰霊祭は、2週間後の4/29、昭和天皇の誕生記念日に行われる。
ここに来るタイミングは今しかない。

人生の不思議に、驚きを禁じえませんでした。

ただただ、無心に、手を合わせました。


それにしても、なぜ愛知県の三ヶ根山に、殉国者の遺骨が眠っているのか?

東條英機(元首相・陸軍大将)

土肥原賢二(元陸軍大将)

広田弘毅(元首相)

板垣征四郎(元陸軍大将)

木村兵太郎(元陸軍大将)

松井石根(元陸軍大将)

武藤章(元陸軍中将)

七氏は昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。
米・英・中・ソの連合国代表が立ち会い、陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。

ドイツでは処刑された戦犯の骨は粉砕されて飛行機上から吹き飛ばされた。
マッカーサー司令部が七氏の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明し、
なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人達がいた。

弁護士の三文字氏は久保山興禅寺の市川住職に相談を持ちかけ、
さらに火葬場の飛田場長も意気に感じ協力を約束した。

七氏の火葬は横浜市久保山の火葬場で米軍によって12月23日に行われた。
火葬場は武装した米兵に囲まれ、場内には飛田場長ら4人の日本人係員が入れたのみだった。

彼らは米兵の目を盗んで七氏の遺骨を七つの骨壷に納めることに成功した。
しかし隠した場所に香をたいたため米兵に見つかり没収されてしまった。
米兵は遺骨を鉄棒で粉砕、小箱に納めて持ち去り、残りは面倒に思ったのか、
骨捨て場に遺棄した。

12月24日夜半、クリスマスで警備が手薄になったところ、
弁護士の三文字正平氏と久保山興禅寺の住職市川伊雄師は飛田場長と共に
遺骨の遺棄された場所に忍び込んだ。
苦心の末、骨捨て場から遺骨を拾い上げることに成功する。

こうして、七士の遺骨は混ざり合い、人目を避けて、
熱海の興亜観音に安置された。

それからサンフランシスコ条約締結後、東京裁判で弁護人を務めた弁護士たちにより、
建墓活動が進められ、昭和35年に三ヶ根山山頂に廟と墓碑が建立された。

七名の殉国者を悼むと同時に、東京裁判がいかなるものだったかを
後世に伝えるためのものである。



後日談。「昭和天皇の 墓参り」

「日本人が知ってはならない歴史」の著者、若狭氏は、
一つの「知ってはならない歴史」を書いている。

昭和天皇・皇后両陛下は、愛知県豊田市で開催される全国植樹祭に出席される為に、
三ヶ根山の高台に建つグリーンホテルに宿泊されました。

三ヶ根山と豊田市にある式典会場までは、約48キロも離れた場所です。
しかし、このホテルは「殉国七士廟」に一番近い(700メートル)位置にあるホテルなのです。

宿泊されたのは陛下の御内意だったそうです。
そして、植樹祭当日の早朝6時頃政府関係者が部屋に入った所、
両陛下は「殉国七士廟」に向かい約17分近く不動のまま佇立されていたそうです。

さらに、その年の11月8日には美智子妃殿下と礼宮がグリーホテルに宿泊されているそうです。



A級戦犯が合祀された後、天皇は、靖国神社に親拝していません。
(ただし、天皇の使いとして、「勅使参向」は継続されています。)

そして、このような言葉も残されています。

「私は或る時にA級が合祀され
その上松岡・白取までもが
筑波には慎重に対処してくれと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うに
親の心子は知らずと思ってる
だから私アレ以来参拝しない
ソレが私の心だ」

この言葉により、靖国はA級戦犯が合祀されているから親拝しないという説があります。

ぼくが思うに、
マスコミの喧伝と、A級戦犯合祀により、親拝は政治的な影響力が大きくなり、
事実上不可能になった。

合祀後の靖国は、売国奴も含まれていたかもしれない。
だから靖国親拝は割り切れない気持ちがあるかもしれない。

靖国に対する陛下の思いは推測でしかないが、間違いなく言えるのは、

陛下は、この殉国七士の遺骨が眠る墓前に立ち、慰霊したかった。
しかし、天皇という立場上、それはできない。
ならば、せめて出来る限り近くから、弔いたいというのが、
陛下のお心だったに違いない。

そしてそれは、どうしても、生きている間にやっておかなければならないこと
だったに違いないのである。

ここ三ヶ根山は、
国を護るために戦い、
南方の島々で散った英霊、裁判で処刑された英霊の集う、
殉国英霊の聖地である。

今、日本が存在しているのは、殉国者の遺志のおかげと思う。
世界最長、2600年を誇る日本の歴史は受け継がれていく。

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