銀のティーポットについて考察を進めると、本当にいろんな勉強のきっかけになります。

それは単に食器あるいは茶器としての勉強にとどまらず、歴史もそうですし、究極は美味しいお茶って何ぞや?というところにまで話題が及ぶのです。

そんなわけで補足の続きです。
お茶本来の香り味と言う観点で銀がお茶に適していない・・・これはあくまでも茶葉主体の側面から効率を重視した意見です。


ですが、お茶の美味しさは必ずしもお茶本来の香り味だけでは決まりませんよね?
これはどういう事か・・・というと、美味しいお茶をどういう風に定義するかによって変わってくるからです。

美味しいお茶とはどんなものか、何を指して美味しいお茶と言うのか。
このことを定義をし始めると、それこそ人の数だけ美味しいお茶があるということになるんじゃないかと思います。
ですが、大きく分けるならば二つに絞れるかなと思っています。

お茶本来の風味を重視するのか
お茶を取り巻く雰囲気・・・癒しを重視するのか

先日にもお茶における癒しとして、非日常の二次元による癒しということを扱いましたが、あえて言えば三次元(現実のお茶の風味)と二次元(雰囲気や空間、シチュエーション、人間関係など)のどちらに重点を置くかという風に皓斗は解釈をしています。

お茶本来の香り味は五感から得られる様々な情報は、その人の物の見方考え方・・・すなわち観念の色眼鏡によって容易に変化をします。

例えるならば、素敵なお部屋や素敵な食器でお茶を頂くといつもよりお茶が美味しく感じる・・・と言ったことがそれに当たります。
これは「素敵なお部屋や素敵な食器で頂くものは美味しい」という観念が、五感によって得られた情報に補正をかけているわけです。

五感って必ずしも見たままを感じてるわけではないですし、むしろその人の物の見方考え方次第では、五感が嘘を付く(正確には感じた内容を脳が捻じ曲げて受け止めている)ことだって少なくないわけです。

現実を直視し続けるのって夢の無い生活ですから、結構大変です。わざと五感で感じた情報を捻じ曲げる事は生きていく上である程度は必要なことなんですよね。
ユリウス・カエサルは「人は己の見たいと欲する現実しか見ていない」という趣旨の言葉を残していますが、人間のこうした性向をよく理解していたのでしょう。

こうしたことは「お茶本来の香り味に目を向けていない」「ファッションや雰囲気でお茶を飲んでいる」と言うような感じで、どちらかと言えば批判的な文脈で扱われることが多いですね。

確かに、客観的(と言っても人間の客観的なんて極めて限界があるものの)にお茶本来の風味を感じ取っていくことは、お茶の勉強の上では間違いなく必要です。
ですがもう一方で、お茶は元より嗜好飲料。楽しむ分にはどのような形であっても良いとも思うのです。
たとえば二次元の癒しが目的でお茶を飲むならば、極論ですがお茶の風味なんて二の次三の次、あるいはどうでも良いんじゃないかと思うのです。

癒しを求めることは、生きていく上で食事や睡眠と同じくらい必要不可欠な事だと皓斗は考えています。日々の食べ物を感謝するのと同じくらい、日々の癒しの糧を頂けることに感謝したって良いと思いますね。

この辺りはどちらが正しくて間違っているというものではなく、TPOの使い分けなんじゃないかなと思っています。
お茶の風味をしっかり感じたい時なのか、リラックスして雰囲気を楽しみたい時なのか・・・スイッチのオンオフのように切り替えができることこそが大切なことだと思いますね。



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