ぞくぞく、ざくざく | 勝手に☆とやまの定住コンシェルジュのBlog

ぞくぞく、ざくざく

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 今日は、櫛田神社の近くに、来月リニューアルオープンされるレストランさんとの打ち合わせ。

 

とにかく、おいしいお店なので、
オープンがほんとに待ち遠しい。

 

築100年あまりのめちゃめちゃ立派なお家を改装して、

レストランだけでなく、

ギャラリー&会員制宿泊所も併設されるとのこと。

 

もうね、もとのお家がめっちゃ立派で、

装飾や欄間、梁、柱がすごくて、ため息が出てしまいます。

玄関の外側から、井波彫刻の欄間あるんですよ。

 

 

改装の仕方は、一言で言えば

古民家×ログハウスみたいな感じ。

今まで見たことのない絶妙な雰囲気です。

趣味かと言われば、私の趣味ではないけれど、
ゆえに、“初めて感”…新鮮さを感じます。
 
…と、古民家を活用したり、改装したりする例が、
たくさん出てきていることは、喜ばしいことだなと思います。
 
今あるものを活かすのは、
とてもよいことだと思うから。
 
…でもね。こういう例がたくさん出てくると、
「活かす」という方法論自体が目的になってしまっているのでは?
と思わずにはいられない場面に遭遇することもあります。
 
それは、ほんとうは
ほぼ20年来考えてきている「交流」と「連携」の話と一緒で、
“もと”があってこそ、“もと”をリスペクトしてこそ!の話なわけです。
 
自分の軸や目的もない人が
交わったり手を携えたりしても、
結局は一過性の動きしかできません。
 
目的があるから、異なるものどうしが交わる意味も、
協力しあったりする意味もでてくると思っています。
 
…とにかく、協力すればいい、
とにかくやってみればいい。
という考え方も、嫌いではありませんし、効力もありますが、
それが使えるのはせいぜい1〜2回じゃないっすかね?
長続きはしないでしょう。
 
“もと”のよさも、本来の目的も、
引き出しきれていなければ、
いやその前にそもそも理解していなければ、
 
それに手を加えることは、
もしかしたら「活かす」どころか「殺す」ことになるかもしれない。
 
生き恥をさらして生きるくらいなら、
いっそのこと殺してくれた方が…。
みたいなことにもなってきやしないか、と。
…心配性で小心者の私は、思ったりするのです。
 
 
先人達の残した、優れたものを、
私たちがリレーしたとたん劣化させてしまいたくない。
 
だから、受け取るときは
やっぱりこわごわ、になる。
 
少なくとも、先人たちが苦労した時間や労力分は、
なにがしかの努力で補わないと、
受け取る資格すらないんじゃないだろうか、と思う。
 
その一方で、
長い時間を経てきたものは、
柔軟性もあるということだから、
私なんぞがちょっとくらいうっかりと受け取ってしまっても、
ご本尊には大した影響はないだろうとも、思っている。
 
つまり、
今までここに存在してきた、ということに、
ちゃんと敬意を表するという姿勢は、
ベースにないといけないのではないだろうか。
 
物事が大きく、わかりやすく動くときに、
見過ごされたりかき消されたりしてしまう、
小さなかけがえのない核心を、
私は大切にしていきたい。
 
その上で、自分の信念…いや執念で、
数少ないカタチを見せられたらよいかなと思う。
 
いじけてると言われるかもしれないけど、
それが楽しいし、それが私のせいぜいだ。
 
 
…最近、ぞくぞくと出てくる議員さんの不正受給も、
ここまでくると怒りも情けなさも通り越して面白くなってくる。
いや、それも通り越して、日本昔話みたいな教訓を投げかけてくれている。
…そこにある核は何だろうか。
 
表面に出てきたものに対して、
それはだめだとか、許せないとか、何らかの反応をするのは、
けっこう誰でもできちゃうことだ。
 
少ない選択肢に反応するっていう話だから。
 
選挙もそう。少ない選択肢の中で、
ほんのひとかけらの自分の意思を示すのは、
日本の大人に与えられた権利だ。
 
これらの権利は当たり前に行使しつつ、
それと違うところに、
もっともっと自主的にしなきゃいけないミッションを、
各々が持っているはず。
 
わかりやすい教訓だからこそ、
そこで、思考も行動も一段落したら、
単に努力を怠っているだけになってしまう。
 
襟をただすのは、議員さんだけじゃない。
古民家は再活用すればいいってもんじゃない。