仏間と空き家問題
【後飾りの祭壇も10日以上が経過】浄土真宗です。でっかいおぼくさんあります。
1月3日。
父が天に召されてから
長いようであっという間の2週間が過ぎました。
いつもおせわになっている慶集寺の河上住職のお経を聞いても、涙が出なくなりました。
「日置き薬」とはよく言ったもので、
この2週間のうちに、いろんなことが自分のなかで整理され、消化されたんだなということが確認できました。
住職は、生前の父が、
お盆にみんなでお経を唱えたことを嬉しそうに語ってくれたという話をしてくれました。
お経を読む私にバシャバシャとシャッターを切っていた父に激怒して、結局みんなで一緒にお参りしたあの日のこと。
そうか、やはり仏間があると、
何かご先祖様を介して、今生きている人たちのコミュニケーションが円滑になるという効果はあったのかもしれないなと、今更ながらに思いました。
そして、思い出した話がありました。
以前、利賀村であったローカルサミットでだったか、
よい田舎は、“人間”と“自然”と“死者”の三者で成り立っている…というような話をきいたこと。
今、生きている人と、
それを生かしている自然環境と、
昔生きていたご先祖がいるということだったかと思います。
ご住職は仏間のことを
「死者を介して、今生きている者が集まる場」というようなことを
おっしゃられていましたが、
今いない人を思う部屋があるって、
とても贅沢なことなんだなと思います。
最近の住宅には、いわゆる仏間がないところも多いですし、
現在の空き家問題の大きな部分を占めているのが仏壇問題でもあります。
自分自身が体験し直面してみると、
「面倒だから仏間をなくしてしまう」という決断はとてもじゃないけどできません。
死者を介して、今生きている人が集まり、
今後の絆を確かめ、ともに未来を考える場所だということがわかったから。
実は、仏間の存在意義のベクトルは、
どこまでも未来に向かっていて、死者は“媒介”でしかないんじゃないか。
…なのに、今までは死者に向きあう場所として捉えるばかりだった。
本来、仏間ってもっと有機的な働きのできる場なんじゃないだろうか。
…うーん。
何か見えそうでまだ見えないけど、私なりに答えを見つけてみたいと思います。
…これも父が出した「お題」のひとつだと肝に銘じて…。