法学事始ブログ

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市井の法律勉強家によるつれづれにっき。その内実は、法学事始のブログ版です★ 詳しくはこちら→http://tatbestand2011.web.fc2.com/

当ブログは「あいまいなこと」をできるだけ明らかにすることが目的です。

法律の勉強は、時間の関係であいまいなままですませ、
ただ基本書の文字列をそのまま飲み込み、吐き出すだけにしてしまいがちです。
「あいまい」には、議論の中の細かなよどみもあれば、
個々の問題点が体系化できないといった大きなわだかまりもあります。

「理解」とは「なんとなくわかる」ではなく「納得してしっかりわかる」ことです。
自分に嘘をつかない理解をめざしましょう。

微力ながらお手伝いできればと幸いです。
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0.はじめに

猿払事件と同じ公務員の政治活動の自由について争いとなった堀越事件、世田谷事件に関する判決が近時出されました(いずれも最判平成24年12月7日)。
このうち無罪判決が出された堀越事件について少し話を。

事案としては社会保険庁東京社会保険事務局目黒社会保険事務所に年金審査官として勤務する厚生労働事務官Hが衆議院選挙に際して、日本共産党支持の目的で党機関紙しんぶん赤旗を配布したことが国公法102-1が禁止する政治的行為にあたるとして起訴されたというものです。
最高裁はHに対して無罪判決を出したわけです。

問題は猿払事件との関係で如何なる考えをとったかということで、そこには大きく2つの面白い点を見ることができます。
一つは猿払事件の読み方に関するもので、法セ697-26において蟻川教授が指摘する合憲限定解釈の余地です。
もう一つが大枠としての猿払基準の不採用、よど号基準の採用ということであります。


1.合憲限定解釈について
前者について蟻川も指摘するように、猿払判決は既に政治的行為について合憲限定解釈の余地をそこに打ち出していると見ることができます。
というのも、猿払事件において「公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところである」と述べているように、公務員の政治的中立性を損うおそれがあるという限定が付されたうえで制約を認めているため、そもそも政治的中立性を害しない行為について猿払事件は射程とせず、国公法も処罰対象としないとしうることが示唆されているというわけである。
この暗示を踏まえたのが本判決で猿払判決の示唆通り明示的に合憲限定解釈を行い、国公法の処罰対象から外す判示をしたといえる。


2.猿払基準とよど号基準
さて、後者、違憲審査基準について、蟻川は枠組がよど号基準という総合衡量へと変更されたことについて、さして重要視しているようには見えない。猿払基準の目的手段審査的性格は総合衡量に取り込まれ、利益衡量が全面にだされたという評価をしているように読める。
しかし憲法学において目的手段審査が占める位置は大きく、その代表ともされる猿払基準が同様の事案であったにもかかわらず採用されなかったことの意味は存外大きいように思える。
確かに猿払事件をはじめとする判例の引用があるが、その引用によど号事件の延長線上にある成田新法事件の引用があることも示唆に富んでいる。成田新法事件においても集会の自由との関係でよど号基準を用い、かつ合憲限定解釈がなされたことはあまり注視されないことながら重要であろう。
このように考えると、本事案からはあえて猿払基準を用いず、利益衡量を正面から肯定するよど号基準を採用することには、一定の意味があり、既存の目的手段審査への偏重へ一石を投じる姿勢を垣間見ることができるのではなかろうか。

世田谷事件、猿払事件と堀越事件での事案レベルでの差異、一般論としての違憲審査基準の定立と審査密度の設定の区別等関連する話はまた気が向いたときに。

またあわせて、今回触れずじまいにおわった、法時1056(2013.2)に首都大・木村教授が、「公務員の政治的行為の規制について──大阪市条例と平成24年最高裁二判決」として、法セ698(2013.3)に慶応大・駒村教授が「憲法訴訟の現代的転回」の最終回として解説しているところもみていきたいところです。

今回は憲法13条、いわゆる幸福追求権について見ていきたいと思います。
かつて人権についての2つの考え方として質的限定、量的拡張の話をしましたがその延長線上の議論です。


1.芦部・人格的利益説の意図するところ―権利と利益の峻別
先ず芦部学説から。所謂人格的利益説です。
芦部の言わんとするところは
「憲法上の権利としてカタログ化された権利は人権の中で歴史的に侵害されることが多くとりわけ保護の必要性の高い重要な権利自由である。

それゆえ社会の変革に伴い保護の必要性が高い法的利益について、権利性を付与することは妨げられない。

但し、あらゆる利益を憲法上の保護の対象として間口を広げることは憲法の保障の価値を下げることになる。

ゆえに憲法上の保護は自律的な個人が人格的に生存するために不可欠と考えられる利益にのみ与えられるべきである」
というものです。人権と憲法上の権利の区別を意識するとこうなるでしょう。高橋基本書がその点明確ですのでご覧下さい。
質的限定説的な立場からあらゆる利益に憲法上の保障を与えずその保護範囲を一定の価値判断を以て限定的に解しています。

このまとめたところを見ればわかるように最後の「ゆえに~」についてはその流れには飛躍があります。

仮に限定されるにしても、なぜ人格的利益にその保障が限定されるのかについては説明がないのが現状です。

人格的利益の範囲も不明瞭であること、人格的利益であれば厚く保護すべきであるという一定の価値判断に立つ思想背景を持たなければ凡そ正当化されないということもいえるでしょう。


ちなみに、人格的利益説という前提に立ったとして、その憲法上保護の対象とされない利益がどうなるのかというと、全く保護が与えられないというものではなく、法律上保護の対象にはなるので比例原則などにより保護が与えられることには注意が必要です。
この権利と利益を区別する考え方は、判例にも現れており、

例えば景観利益について、それが景観権としての保護が与えられないことを前提にしつつ、不法行為の可能性を探る国立マンション訴訟(最判H18.3.30民集60-3-958)などはこの立場といえるでしょう。
権利性の付与はその効果として憲法上の強い保護が与えられる点、権利性が認められれば利益にとどまるよりその保護は強く働きます。

憲法上の権利性を肯定する事例はプライバシーなどではあれどなかなか認められていないのが現状で、その点では芦部の人格的利益説の妥当性は検証もままなりません。
ただあらゆる利益に権利性を認めないという意味で判例は質的限定説に立つこと、言い換えれば一般的自由説を採用していないことはどうやらいえそうです。


これに関係して、一般的自由説の示唆すること、宍戸「憲法解釈論の応用と展開」第2章の話の意味など、

まだ書き足りないことはあるわけですが、ひとまずここまでにして、

それは今後に委ねることにしたいと思います。

こんばんは。今日は人権享有主体について。


0.大前提

まず確認しておくことは近代社会において、憲法は国家の定款であるということ。

そしてその国家の相手方として想定されているのは平等で均質な国民という存在であるということ。

またこの考え方は現代においても基本的には継承されていること。

この3点を押さえなければ話は始まりません。


その上で、人権享有主体という話になるわけですが、

「憲法上の権利」と区別された「人権」というものを想定するということが出発点になっています。

憲法上の権利を考える限りはその憲法上の権利の対象は誰なのかということを考えればよいだけとも言えるわけですが、ひとまずおいておくことにしましょう。


1.人権享有主体のデフォルト―国民

さて人権享有主体というのは

主観法としての国家に対する権利を有する者、

客観法としては国家がその規範の相手方として想定する者ということになるわけです。

そして先ほど確認したところに戻ればそれは原則として「国民」だということになります。

日本国憲法も11条で確認しているところです。


当たり前のようですが、これが憲法を考える上で実は最も重要なことであります。

近代憲法は国民を対象にする法であり、言い換えると国民に対してのみ作用する法です。

さて憲法はそこに国民に付与すべき権利、憲法上の権利を定めています。

人権という大きな枠組みの中で国民に付与されるものがカタログ化されたものが人権条項、憲法上の権利ということであるならば、

ここに人権享有主体がもつ問題を見て取ることが出来ます。

「憲法上の権利は国民以外は享受することが出来ないのか。

人権であるならば憲法上の権利として享受できないとしても保障の余地があるのではないか。」


2.人権享有主体性の議論一例―外国人

外国人を例に出すと、

「外国人は自然人であるが、国民ではない。しかし人権の前国家的性格、国際協調主義から権利の性質上日本国民をその対象としている者を除き外国人にもその保障が及ぶ」

という芦部の議論がそれです。

「人権の前国家的性格」というのは、自然権としての人権を想定し、憲法上の権利はそれを明文化したものにすぎない、それゆえ人権が有する普遍性は憲法上の権利にも承継されるという意味であります。憲法上の権利として明文化された段階で内在的に人権の性質を帯びて外国人を対象とするという説明です。

ただし、これは自明ではありません。憲法上の権利とする段階でその保護の対象を限定することはありうるわけで、一つの説明に過ぎません。その限定は謂わば権利の性質上というところで解消させると言うことになるわけです。

一方で「国際協調主義」というのは、憲法が国民を対象とする法で、憲法上の権利が国民にしか享有されないという原則があることを前提として、しかし国際協調主義、グローバリズムの中においては憲法上の権利を享有できる者、言い換えると憲法上の保護の対象は外在的に拡張していくべきだという説明です。

議論の仕方としては現代においては後者が凡そ説得力があるように思えます。


この問題はイェリネクの身分論によっても説明できるわけですが別稿に譲りたいと思います。ご興味のある方は、法教で連載されていた憲法の解釈第2回あたりの石川論文をご参照下さい。


法人、天皇、子どもなどまだまだ人権享有主体性の問題はあるわけですが、またいずれ。