ナチスを歓迎したカナダ議会の追及 逃亡ナチス隊員の巣 第14SS武装擲弾兵師団 ナチズム | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。

 

 ナチスを歓迎したカナダ議会の追及

 

 カエデの葉にハーケンクロイツ 逃亡ナチス隊員の巣と化したカナダ

SPUTNIK日本 2023年9月27日

 第二次世界大戦前、カナダ人は反ファシズムを掲げ、1939年には英国と同盟を結んでナチス・ドイツと戦争した。しかし戦後、カナダ国内の状況は一変。戦犯として東欧全域で指名手配されていた何千人ものウクライナ人ナチス協力者が押し寄せてきたからだ。カナダへ逃げ込んだウクライナ人ナチス隊員らは、まんまとカナダ政権内に強力なロビーを形成した。このことから、カナダの公式エンブレムであるメープルリーフ(カエデの葉)にはナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)を加えるのがふさわしい。

SS武装擲弾兵師団「ガリーツィエン」の血塗られた過去

第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(ウクライナ第1)は1943年、ドイツ国防軍がウクライナ人を集めて結成した部隊。その任務はウクライナ国内での反ファシスト、共産主義者、ユダヤ人の大量殺害にとどまらず、ソ連兵やポーランド兵、ユーゴスラビアのパルチザンと戦い、ロシアやスロバキア領で民間人を残らず殺した。

カナダ議会で熱烈な喝采を浴びた98歳のウクライナ人のフンカ親衛隊員は、第二次世界大戦後、戦争法廷を逃れ、カナダに潜伏した9000人のナチス処刑人の一人。その一方で、ヒトラー政権から逃れたユダヤ人をカナダが受け入れたのはわずか5000人だった。つまりカナダはホロコーストの犠牲者よりも、その加害者を歓迎する国だったわけだ。

         ⇩

第14SS武装擲弾兵師団

宇宙のすべての知識 プリンシピア 

2019/07/01 #ウクライナの歴史

第14SS武装擲弾兵師団, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0 #ドイツ武装親衛隊の師団 #ウクライナの軍事 #ウクライナの歴史

 

第14SS武装擲弾兵師団

第14SS武装擲弾兵師団 ガリーツィエン(ウクライナ第1)(ドイツ語:"")は、武装親衛隊の師団である。1943年、ウクライナ西部のガリツィア(ドイツ語名:ガリーツィエン、ウクライナ語名:ハルィチナー)からの義勇兵で編成され、ブロディをめぐる戦闘で大損害を受けた後、再編成されて第1師団と改名、連合軍に降伏するまで、スロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアで作戦任務に就いていた。

第一次世界大戦終結によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、ウクライナ人が住民の多数を占めていたガリツィア東部はポーランドの一部と化すのを嫌い、西ウクライナ人民共和国としての独立を宣言した。しかしポーランドはこれを軍事力でたたき潰し、ガリツィア東部はポーランド領となった。戦争中、ガリツィア東部のウクライナ人は民主主義者が穏健派を、民族主義者が強硬派を形成し、後者はウクライナ民族主義者組織(OUN)を結成し、多数派を占めていた。

その後OUNは分裂、ステパーン・バンデーラが率いる多数派のOUN-Bに対抗すべくが率いた少数派のOUN-Mはアプヴェーアとの緊密な関係を持つ。第二次世界大戦勃発によるナチス・ドイツとソビエト連邦による侵攻により、ポーランドが分割統治され、ガリツィア東部はソビエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土とされたが、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動、ソ連侵攻を開始すると、今度はガリツィア全土がドイツの占領下となった。

ウクライナにおける民族主義組織はその保有戦力でソ連との戦いに参加することをナチス・ドイツに希望していたが、独ソ戦初期においては考慮されなかった。しかし、1943年初頭、度重なる激闘で人的資源が枯渇しつつあったドイツ国防軍はウクライナの民族主義組織を戦力として用いることを考慮するようになり、その後、ウクライナ人師団を編成することを正式に決定、1943年12月28日、発表された。

師団はウクラナイナ中央委員会により組織され、ウクライナのカトリック教会の支持を得た上で、ヴォロディームィル・クビヨーヴィチが率いることとなった。ドイツはウクライナ人を始めとするスラブ民族を劣等民族とする、彼らの人種イデオロギーについて何ら修正しようとしなかったが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーへの忠誠宣言を求めるにあたって、反共主義についてのみとするよう取り計り、また、カトリック教会(ウクライナにおいてはウクライナ東方カトリック教会、もしくはカトリックの信徒が多かった)の従軍司祭同行が認められていた。こういった各種譲歩はドイツの敗色が濃くなり、ウクライナ将兵の士気が下がることを懸念して行われたと推定されている。師団内のナチ化は行われなかった。

ドイツ人以外の将兵で構成された師団の編成は、共産主義と戦うという旗の下、以前より行われており、フランス、オランダ、ラトビア、エストニア、クロアチアの義勇兵が参加していた。ウクライナでの師団編成においては、ウクライナ独立へのステップであるとドイツが認めていたため、義勇兵を募ることに支障はなかった。1943年4月28日、ガリツィアで登録された80,000名のウクライナ人で師団を編成することが発表され、1943年12月にはすでに活動可能であったが、1944年5月までは訓練を続けていた。

師団には、バンデーラ派OUN-Bの極端な国家社会主義イデオロギーに反感を持ち、その軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)と歩調を合わせたくないと考えながらも、ウクライナの為になら戦うという義勇兵も含まれていた。また、師団の世話役であり、最高級将校を勤めたドムィトロー・パリーイウはポーランド第二共和国における小政党の党首であり、彼の同僚の多くが穏健左派政党、ウクライナ国民民主連合(ポーランド語:'、')の党員であった。彼等は戦前、ポーランドとの対話を行い、OUNなどの国家社会主義に反対していた。さらに、師団にはアンドリーイ・メーリヌィク率いる国家社会主義穏健派も加わったが、これはOUN-Bが牛耳るUPAとの釣り合いを取るためと見做されていた。また、師団はムィハーイロ・オメリヤノーヴィチ=パウレーンコ将軍のような追放されてポーランドに避難していたウクライナ人民共和国亡命政府の要員からも精神的支援を受けていた。そして、ウクライナ東方カトリック教会、ウクライナ正教会も師団の支持をしており、キエフ正教会府主教ムスティスラウの息子もその...

 

 ナチズム

 このナチス・スキャンダルは孤立した事件ではない。西欧のリベラリズムには、ナチズムの多くの特徴がある:

-マス・プロパガンダ
-ジャーナリスト/科学者の検閲
-強制的な医学実験
-極悪非道な生物学的研究
-政治的反対勢力の逮捕
-世界覇権の野望

同じイデオロギー、違う名前。

ナチスは右翼だ!」と言われる前に、これは歴史修正主義だ。ナチスは文字通り社会主義者だった。彼らの名前は文字通り「国家社会主義労働者党」だった。

彼らは民間部門の政府管理を支持した。あらゆるものを政府が管理することを支持したのだ。しかし、ナチスはナショナリストであったため、左派はナチズムと保守主義を結びつけるよう大衆にガス抜きをした。

左派は、自分たちにとって都合がいいから、ナチスが右翼だったと思わせたいのだ。KKKや奴隷制を支持した南部民主党と同じように。奴隷制廃止に全会一致で賛成したのは、共和党のエイブラハム・リンカーン率いる共和党だった。その後、左派は「政党が入れ替わった」と言ったが、もちろんこれも大嘘だ。

左翼のイデオロギーは常に全体主義的でファシズム的だ。ANTIFA/BLMのような 「褐色のシャツ」 に相当する連中は、物理的な脅迫と暴力で政治的反対勢力を弾圧し、焼き討ち、略奪、暴行、殺人、暴動の扇動などをしても、何の影響も受けない。

このナチスのスキャンダルは単なる事故ではない。文字通り彼らのイデオロギーなのだ。これが彼らの正体だ。これは常に彼らが何者であるかということだ。それがより明白になってきただけだ。