日台の懸け橋となった同窓の誼(よしみ) 李登輝・元台湾総統 | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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旧制高校 寮歌物語】(22)日台の懸け橋となった同窓の誼
2013.1.6 08:14

校歌の一節をスピーチに

 台北高等学校(旧制)の同窓会は、東京と台北にある。昨年10月、日台双方の卒業生ら約80人が台北に集まり、台北高の創立90周年を祝う記念大会が行われた。日本から出席した元最高裁判事、園部逸夫(いつお)(1929年~、台北高・四高-京大)によれば、「みんなで一緒に校歌や寮歌を歌い、大いに盛り上がった」という。

 園部と同じテーブルに、台湾の元総統、李登輝がいた。終戦の年(昭和20年)に台北高校へ入学した園部から見れば4期上の先輩に当たる。スピーチに立った李登輝は、20年前の70周年のときと同じように、高等科設置時の校長・三沢糾(ただす)(1878~1942年)が作詞した第一校歌『獅子山頭に雲みだれ』の4番の歌詞を引用した。《ああ純真の意気を負ふ 青春の日は暮れやすく 一たび去ってかへらぬを など君起(た)ちて舞はざるや いざ手を取りて歌はなむ 生の歓喜を高らかに》

 そして、こう呼びかけた。「第一校歌のこの一段を繰り返し、われらの古き関係を新たにしつつ、日台の心と心の絆を築いていきましょう。(中略)そしてさらに母校-台北高の『自由と自治』の素晴らしい伝統を永遠に伝えてゆくことを心から願うものであります」

 台湾に、近代教育制度を根付かせたのは日本である。公学校(小学校)、中学校、実業学校。そして、台北高、台北帝国大学をつくり、台湾人にも高等教育を受ける機会が開かれた。ただし、それは極めつきの「狭き門」であった。

 台北高の定員(高等科)は文科、理科2クラスずつ(1クラスの定員は40人)の計160人。李登輝の記憶によれば、このうち台湾人は、文科のクラスでは4、5人。最も多い理科乙類(医師を目指すコース)でも十数人しかいない。入学試験には台湾中の秀才が集まり、しのぎを削ったのである。

 「ボクは11歳のとき、父に小学館の児童百科事典を買ってもらい、それを朝から読んでいるような子供だった。知識が豊富で我(が)が強く、学校の友達では相手にならない。古事記や源氏物語も中学のときに読んでしまっていたから(台北高の)入試の国文・漢文は百点。先生もビックリしたそうだよ」

厳しく愛情にみちた時間

 李登輝にとって、台北高での学生生活は「厳しくとも愛情に満ちた時間」であった。

 多くの旧制高校の生徒がそうであったように、猛烈な勢いで古今東西の古典を読破し、先哲との対話によって思索にふけり自分の内面と向き合った。「死」とは何か、「人生」とは、「李登輝」とは…。

 中でも、人生において大きな影響を受けた本が3つある。トマス・カーライルの『衣裳(いしょう)哲学』、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』。そしてその先には、新渡戸稲造の『武士道-日本の魂』との出合いがあった。新渡戸に強く惹(ひ)かれた李登輝は、やがて、彼と同じく農業経済学を志すことになる。

 「高等学校では他ではできない勉強ができたように思う。自分の内面と向き合い、自分の心を客観的に取り出す。それは、その後のボクの人生の糧になるような『人間を作り上げる』最初の時間だったんだ。先生方も一流ぞろいだったね」

 こうした濃厚な時間を共に過ごした台北高の恩師や仲間たちは李登輝にとって特別な存在だ。平成19年に来日し東京都内で歓迎の会が開かれたときには、東京の同窓会「蕉葉(しょうよう)会」のメンバーが壇上で歌う『獅子山頭に雲みだれ』の輪に突然、李登輝が加わるハプニングがあった。「仲間意識は強いね。会うとたちまち“昔のまま”に戻ってしまうんだよ」

 90周年の記念大会ではこんなことも語っている。台北高時代には日台のクラスメートの間に民族的な微妙な心理が存在していたものの自由、自治の学風によって、こうした矛盾を超越して学校生活を送ったこと。「あの時に確立した誼(よしみ)はその後も絶えることなく続き、今日の台湾と日本の交流の懸け橋になっております」と。

「リーダー」がいない日本

 旧制高校のように人間形成を重視した教育や武士道精神に基づく道徳心…。李登輝は、かつて身をもって体験した「日本の教育」や「日本の精神」を高く評価している。それは今も変わっていないのだろうか。

 「東日本大震災の日本人の態度には、世界中の人々が頭を下げました。混乱の中でも秩序を守り、互いに思いやる心を忘れなかった。今の若い人たちの中にもこうした『日本精神』を持っている人たちがいる。ただね、今の日本には『リーダー』がいない。20年近くもデフレが続き、その間に10人以上の首相が代わった。安倍さん(晋三首相)も古い自民党の体質に縛られてしまうとダメですよ」

 李登輝は、国のリーダーは2つのことだけを考えていればいい、と思う。『国家』と『国民』のために奮闘することだ。「個」の利益ではなく「公」の利益のために行動し、高い精神性と大局観を持った人物だ。

 「戦争が終わって、アメリカは日本の軍閥を潰し、財閥を潰し、そして学閥を潰した。つまり、旧制高校-帝国大学というリーダーを養成する制度です。リーダーを養成する教育システムは、アメリカにもイギリスにもある。1つ2つでいい。国のリーダー養成を専門に行う学校を作っておくべきだろう」

 李登輝は、かつての旧制高校を復活させよ、と主張しているのではない。その精神を生かしながら別な形でリーダーを作り上げる学校を設ける。一般の学校ではやらないようなカリキュラム、たとえば軍事関係を勉強したり訓練を課したり。もちろん幅広い教養やスポーツも身に付けさせる学校だ。

 台湾ではいま、日本の旧制高校の教育や精神を見直す機運が出てきている。それは李登輝にとってもうれしいことだ。日本から修学旅行の高校生が来ると、「日本の良さ」や「かつて台湾で日本がやった仕事」について教えることにしている。日本の学校では、ほとんど教えないことだから、高校生たちはビックリするという。

 「今の日本の教育は、自虐的で日本の良さを教えていない。歴史は歴史、ありのままでいい。いい悪いではないんだよ」=文中敬称略(台湾・淡水で 文化部編集委員 喜多由浩)



【プロフィル】李登輝氏

 り・とうき 1923(大正12)年、日本統治時代の台湾・淡水郡出身。淡水中学(旧制)を経て、41年、台北高等学校(旧制)文科甲類入学。43年、京都帝国大学農学部農業経済科入学。同年、学徒出陣で陸軍入隊。戦後、台湾へ戻り、台湾大学に編入学。その後、台北市長などを経て、88年、総統に就任。2000年まで12年間務め、台湾の民主化を進めた。



【用語解説】台北高等学校(旧制)

 1922(大正11)年、日本統治下の台湾・台北に、外地の高等学校としては初めて設立された。7年制(尋常科4年、高等科3年)で、台湾人生徒は全体の約2割、医学部進学を目指す理科乙類に多かった。終戦にともなって台北高は廃校となり、台北高級中学に改称。校舎は現在、台湾師範大学となっている。主な出身者に、作家の邱永漢、大原一三元農水相、小田滋元国際司法裁判所判事など。外地の旧制高校はほかに旅順高(関東州)があっただけ。

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欧米列強の植民地政策は、現地人から教育の機会を奪い、指導者(知的エリート)を作らせない。(衆愚政策)



どの民族でも5パーセントほどは、指導層に成りうる青年たちが存在しています。



日本は、アジアを植民地にする意思はなかった。

日本人にある「人種平等意識」で、これら東亜の青年たちへ熱心に教育を与え、そして独立心を喚起した。


戦後の自虐史観は、占領政策の成功例です。

自らの歴史さえ知らない。

日本人の知的エリートたちの劣化を、台湾人である李登輝氏から痛烈に指摘された感じです。