たらればの世界 -120ページ目

カトリーヌへのオマージュ

あなたが夜中、私の部屋の棚をのぞき込んで、フィリップのCDを取り出して、不思議そうに眺めている。
次の日、あなたは、私の気づかない間に着替えをすまして、テーブルの上で、またあのフィリップのCDを持ち出して、電子辞書を片手に歌詞カードを睨んでいる。
馬鹿ね。あなたにわかりっこないわ。
髪はほどけて、ばらばら。左頬で枕を潰しながら、私は、片目で彼を盗み見る。
あら、まじめくさった顔をしているあなたの方が素敵。
貧乏揺すりは格好悪いけど。

スナイパー

引き金を引く前に、かるく息を吐き、思う。去年もこうして、片目を細めながら照準を見つめていた。今度こそ。
もう一度、銃身を標的に向けて息を止める。早くしろ、まるでどこかで私を急かしているような声が聞こえる気さえする。しくじってはいけない、標的を射抜く重要性は勿論だが、ここで外すようなことがあっては、私の沽券に関わる。なにより、プライドが許さない。落ち着け。私はイメージする。憎いあの人を一瞬で射抜くイメージ。仕事に私情を持ち込まないがプロフェッショナルなのだろう。この点で私は失格かもしれない。しかし、どんな俳優といえども、演技中に涙を流さなければならないときは、自分の悲しかったこと、悔しかったことを思い出して、感情を高ぶらせる。私のキャリアは長いとは言えない。しかし、私とて、銃把を握るときのコンセントレーションの仕方は、自分で心得ているつもりだ。私は、甘ちゃんかもしれない、と思う。いくら、後腐れのない、一晩限りの事とはいえ、なにも私の関わりのないものを打ち落とすには、多少の仮借を感じずにはいられない。だが、その所為で的を外しては、本末転倒だ。だから私はこの鉄の筒に私情を持ち込む。私の憎い人を、私の過去を断ち切るべく、あの人を、常に私の標的にして、引き金を引く指がためらわないように。照準の中には、決まってあの人をイメージする。あの人の眉間を打ち抜く。いまだ!

・・・はい、外れね!
私の握っているライフルからはなったわゴムは、セルロイドでやたらとテカテカ光った色をしているかわいらしいリスの人形の脇を通って、地面に落ちた。また・・・外してしまったか、今年の夏も・・・

後悔が襲ってくる。あの人の脂ぎった顔。歯についた食べカス。なにより不健康に太った腹回り。そしていやらしい目で見つめるあの顔、打ち損じた私は、あの人を未だに消し去ることができない。ふと思い出して、不意を装って、わざとらしく私のお尻をさわってきたとき、そんなに悪い気はしなかったな・・・

私には、憎しみが足りない。

だって、ちいさいことだから

だって、ちいさいことだから。あなたには言う必要がないと思ったの。あたしの右肩の上の方に、ちっちゃいイボがあって、あなたが手を回したときに、その感触が気に入らなくて、ちょっとしかめっ面をしたの、あたしは知ってるわ。なにも言わずに、右側に回ったわね。でもなにも言ったりしないわ。
だって、ちいさいことだもの。気にしてなんていられないわ。あなたの身長とあたしの身長、ちょっと差があるわよね。それは良いの、あたし、背の高い人好きだし、手が長いのと、脚がすらっとしてるところ、大好きだわ。だけど、そっと抱きしめてくれたとき、優しいのよ、だけどね、あなたのアゴがちょうど私の額にあたって、ヒゲがちくちくするの。毛が固いのよ、あなた。それに、はやりなのかもしれないけど、美容院でヒゲを綺麗に整えて貰ってたり、お洒落だと思うのよ、でも・・・固いのはね。ヒゲが濃い男の人は、頭が薄くなるっていうし、実際あなたも・・・気になるわ。でも、なにも気にするほどのことではないのよ。
だって、ちいさいことでしょ? 考えるだけ時間の無駄だわ。好きなのは判るわ、私だってもちろん、あなたのことが大好き。でも、夏場は困るの。ぎゅっと抱きしめられると、その、汗のにおいが、ね。抱きしめられるのを拒否してるんじゃないわよ。抱きしめてよ、好きだわ。だけど、そう、においが・・・ でもね、男の人のにおいをかぐことで、女性ホルモンの分泌が良くなるって話を聞いたこと有るわ。そんなに考えることじゃないのよ、うん。
え? 結局、気にしていないって言いながら、気にしてるじゃないかって? 女はいつもそうだ!って、なによそれ! ちょっと! ねぇ、どこに行くの?! 出て行かないでよ!