「冨永こよみ選手~幾多の苦難を乗り越えて~」==>http://ameblo.jp/taqman/entry-11714127627.html
googleで「冨永こよみ」と検索するとwikipediaの次にこの記事が出てきます。
これでも十分に伝わる内容になっていると思いますが、今になって思えば本当の苦難はこの先にあった訳ですので、やはり私がここでその続編を書くべきだと思っています。
後日、上記記事に今日の内容を加筆し、検索でこちらの記事がヒットするようになった時にはこちらの記事に上記記事を加筆する予定です。
それは2013/14シーズンのこと。
私は国体の活躍から、ここでパイオニアは上位に食い込み、冨永選手も脚光を浴びて全日本に選出されるものと信じていました。
むしろ当時はそれを期待して応援しよう思った経緯があります。
しかし、現実はあまりにも残酷でした。
まず開幕戦、まだプレミアリーグに昇格したばかりの日立にストレート負けを喫しました。
今になって思えばそれが全ての始まりだったように思います。
その翌日の岡山との試合は直接生観戦しました。
しかし、結果は惨敗。
冨永選手が上げるトスも連続でブロックにつかまったりした場面もありました。
でも、それでもまだ始まったばかりであり、まだまだこれからと思っていました。
その後、皇后杯の準々決勝だったと思いますが、東レ相手に非常に惜しいフルセット負けをしてしまいました。
あれは2セット先取した後にフルセットまで行き、最終セットで痛いジャッジミスなどもありそこから巻き返されたというような展開だったと思います。
ただ、その間にトヨタ車体とNECに2連勝したため、ここから軌道に乗るかと思いきや、その年最後の東レ戦で皇后杯のリベンジならず。
しかもあの試合は内容も決してよくなかったため、このまま年を越すのはまずいと思い、当直先ですぐに手紙を書いてパイオニアに送りました。
しかし、残念ながらそこからパイオニアはどん底でした。
どんなに応援しても全然勝てず、17連敗を記録してしまいます。
その後やっと日立に久々の勝利を挙げたものの、その後最後に5連敗し、最後は3勝25敗。
12勝16敗で7位のJTと大きく離されての最下位であった。
私はその間の過程をずっと見てきました。
上げたトスがブロックに捕まる場面があったものの、実際にはサーブレシーブがちゃんと冨永選手のもとに返ってこなかったり、タッチネットやアタックラインを踏んだり、または冨永選手がブロックを外してもスパイクが外れてしまったりと、冨永選手とは関係ない部分での失点が多かったのは事実でした。
どこに活路を見いだすべきか全く分からない、まさに泥沼というチーム状態でした。
冨永選手も本当に悩み苦しんだと思います。
ましてや自分だけではどうにもならない部分もあったであろうし、しかし負ければセッターの責任になってしまうし・・・。
でも、冨永選手も私の前では毅然としておりました。
今になって思えば本当にいっぱいいっぱいだったのだと思います。
リーグ終盤の秋田で行われた岡山戦の後のこと。
その試合後の彼女の姿は明らかにいつもと違いました。
いつも毅然としていた彼女が、あの時は完全に目が虚ろで明らかに落ち込んでいる様子でした・・・。
試合自体のことか、試合後に何かあったのか、そこは追究すべきことではありませんが、あの当時のチーム状態を考えれば当然のことです。
かわいそうに・・・。
やはりあの時の姿は本当に辛かったです。
私もさすがにあの時の帰りの新幹線ではもの凄く落ち込みました。
もちろん、彼女の苦悩はこんなもんじゃないことは言うまでもありません。
そう考えると、いかに極限状態で戦っていたか。本当に痛感させられました。
そして、ついに運命のチャレンジマッチ。
初戦はストレート負け。
翌日。もう1セットも落とせない中、いきなり序盤で大差をつけられてしまいます。
そして、第1セット目を大差で落としそこでチャレンジリーグへの降格が決定。
しかし、残酷なのはその後も試合が続くということです。
あの中で戦いを続けなければならないこと。こんな残酷なことはありません。
試合終了後、私は足早に体育館を後にしようとしたが、2階の出口付近でふとコートに目をやった時、手を顔に当てて去って行く冨永選手の姿がありました・・・。
私はどんな結果であっても、それがたとえ彼女の意に反しても、試合後には会わなければならないと決めていました。
ただ、さすがにあの試合の後にはどうやって向き合うべきか悩みました。
ましてやその前に秋田でもの凄く落ち込んだ姿を見ていただけに。
あれから何分くらい待ったであろうか。
その時の彼女の姿はいつも私に見せていた毅然とした姿でした。
しかし、その目は真っ赤に腫れ上がっていました。
私はいつもの差し入れを渡してこう伝えました。
「これは終わりではなく始まりですから」と。
そして、しばらくまっすぐ突き進んだ先に、おそらく冨永選手の知り合いと思われる方と接している時に、彼女はうつむいて両手を顔に当てていました。
パイオニアレッドウイングスのチャレンジリーグ降格が決まって最初の大会である黒鷲旗。
私は行くことが出来ませんでしたが、冨永選手は明るく元気な姿を見せていたと聞きました。
結果もまずまずであり、ここから巻き返せると信じていました。
しかし、パイオニアレッドウイングス廃部が決定したのはそのわずか数週間後のことでした。
選手には廃部直前になり突然通達されたようです。
その時、チームの中心選手であり副キャプテンでセッターである冨永選手は一体どういう心境だったのだろうか。
そこから上尾メディックス移籍が決まるまでの期間。
私にとっては本当に長かったです。
移籍が決まったのも一番最後でした。
他の選手が決まっていく中、焦りもあったようです。
その間に自分の今後についてじっくりと見つめ直したとききます。
ガッツさんが結婚して引退したことを聞いた時、正直冨永選手も・・・と思ったのは本音であり、それが例え自ら選んだ道であってもその発表だけは本当に怖かったです。
押しつけがましいかもしれませんが、ここまでの姿を見てきたからこそ、絶対に選手として続けて欲しかったし、ここで終わって欲しくなかったから。
上尾メディックスの入団が決まった時。本当に嬉しかったです。
同時に、それでも選手として続ける道を選んだこと、また、上尾メディックスには土田選手という絶対的な正セッターがいるにも関わらず、あえて厳しい道を選んだことに強く感銘を受けました。
さらに、サマーリーグでは自らの力で東レにも勝利し、結果的には準優勝。
その後、リーグではご存じのように、多くの試合では控えではあったものの、リーグ終盤やファイナル6ではスタメンとして活躍し、あの久光にも勝利する場面もありました。
全日本には選出されませんでしたが、間違いなく明るい未来に向けて光が見えてきました。
もちろん、その後も幾多の苦難が訪れるかもしれないが、きっと乗り越えられるでしょう。
逆に幾多の苦難を乗り越えた先には必ず明るい未来が待っているということを彼女を見ていて思いました。
それを教えていただいた冨永選手には本当に感謝しておりますし、辛い時期もありましたが信じて応援を続けてよかったと思っています。
そして、なぜこのように幾多の苦難を乗り越えることが出来たか。
それを黒鷲旗の試合後に直接本人に聞いてみた返事。
「応援していただけるファンの方達がいらっしゃったからです」
ありがとう・・・。これからも例え距離が遠くてもずっとずっと応援します。
(本日はアメンバー限定記事はありません)
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