まー、まだ読んでいる途中なのですがね。今犬神家状態が見つかってちょっとくらい。


今回は二つだけ。
考えたっていうか、パッて思いついたことを書きました。



○最初に牛の角、次に顔、そして身体が見えたがしっぽは見えなかった。どうして?


これは単純に「身体を見せたあたりで立ち止まったから」だと思いました。通り過ぎたとは書いてなかった気がしますし・・・。これは公案の答えでもなんでもないですね。


○犬に仏性はあるか。一人の弟子にはあると答え、別の弟子にはないと答えた。どういうこと?


これはふと思ったのですが、まぁ生きとし生けるもの全て修行すれば仏様になれる可能性はあると思うのですよ。そういう意味では”ある”だと思います。でも、わんこは別に悟って仏様になりたいなぁと思ったり、世の中の人々を救いたいなぁとは思ってないわけですよ。おいしいご飯食べたいとか、ご主人散歩忘れないでくれるかな?くらいでしょ。それじゃあもう仏様になる可能性なんてあったってなくったってどうでもいい。つまり”ないようなもの”。だから”ある”でも”ない”でも正しいのじゃないかと。



職場の人に話したら、「ただでさえ難しい本なのに、そこまで考えて読んでられん」とスパッと切られました。はいはい、いつも通り私は面白い話は出来ない人ですよ。


”悟る”事について、自分なりに考えてみましたが、結局”悟りたいから修行する”というのはダメなんですよ。だって、”悟りたい”っていうのはもうまるっきり欲求じゃないですか。欲ですよ。だから「悟りたい」と考えているうちはダメ。分かった瞬間は確かに分かっているけれど、でも分かったと認識してしまったらもう終わっているというかなんと言うか。意識している善意は偽善と言うか・・・。でもまぁ、偽善でもなんでも、人のためになることをしたのならそれで十分だと思いますけどね。確かに救われる人はいるのだし。それが褒められたいからなんて理由でも別に構わないと思う。

芸術は心を揺さぶるもののことだと思うのですが、芸術家と職人の違いはピンとこないですね。ただ、今川さんは蒔絵を続けるなら、ただ自分の作品を愛しながら作ればよかったんじゃないかなと思う。子供嫌いだった人が自分の子供だけは無条件に可愛いって思うのとなんか似てるような。それは独りよがりな考えで、出来栄えは大したことないかもしれない。でも、思いはたっぷりつまっている。そうして続けていった先で、人の琴線に触れる作品を作る事もあるのじゃないかなと。





あーと、一応鉄鼠は前に何度か読んだことがあるので内容は知っているのですが、”なにもない”僧侶である慈行さんですが、これって、いわゆるマニュアル人間・・・ですよね。多分。自分の頭では考えず、ただひたすら規則を守る。だからスケジュールが狂うのが一番許せない。自分が保てなくなるから。規則を守り暮らしていけば幸せに生きていけると妄信しているので、周りにまったく興味がない。だから全ての印象が薄い。人の顔を覚えられないし名前も覚えられない。多分、榎木津さんは彼を見た時、なーんにも見えなかったんだと思う。小坂さんを案じているなら小坂さんの姿が、榎木津さんを不快に思っているなら榎木津さんの顔が見えたはずなのに、なにもない。お腹がすいたとご飯を思い浮かべるわけでもなく、修行修行と経文を思い浮かべるわけでもなかった。そりゃ・・・不気味だよね。多分、榎木津さんにしてみれば、そんな”視えない”人間なんて死体だけだっただろうし。子供でも大人でも、日々なにかしら考えてはいるでしょうからねぇ。



などと書いてみましたがこれは全部ただの臆測であり、意見の一つなので。さらりと流し見てください。
他の公案も考えが浮かんだら書きますね~。