悪を否定せずにとらえる感性 | 3年前のしこうの楽しみ

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夜中に目が覚めて、ふと自己矛盾があることに気づきました。
具体的に何かが直接のきっかけになったわけではありませんが、その時は普段とは異なった意識状態になってしまったようです。
歴史ある地域に泊まっていたことが影響したのでしょうか。

自分の中に他人が入り込んでしまったような感覚でした。
何だかそこでリピートされる言葉の通りに行動しないといけないような気がしてきてしまったのです。
といっても霊的な存在の憑依とは異なる独特の印象がありました。

明確に自分のものではないという認識があったので、少しの間、瞑想によりクリアリングを行いました。
そんなわけで正常に戻ったところでまた眠りについたのでした。
しかし、あとあとよく考えると、もし自分がこの現象に気づけないのであれば入り込んだ思考のままに行動してしまうように思いました。

そして自己乖離を起こしてしまうことでしょう。
そして、こういうことは一般的には顕在化されないままに起きてしまっていることが推測できます。
意図的に起こされることではないのかもしれませんが、こうやって何らかのコントロールがなされるのかとも感じました。

それと同時に自分の軸を保つ重要性とそれがズレるポイントが分かったようでもありました。
しかし、ここで問題が浮き上がってきました。
自分の内面においてすべてを受け入れるという価値観と、物事をありのままにとらえるという立ち位置が不整合を起こす気がしたのです。

これは今まで両立しているつもりだったものに内在していた認識できていなかった課題でした。
事実を客観的にみつめた結果としてある対象が悪影響の大きさから認められるべきではないということはありうることで、それは一般的には否定されて悪いものと評価されてしまうわけです。
それを受け入れるべきなのか否かということを考えることもなくこれまで許容してきていたのでした。

そんなわけで、これらのバランスを取る必要が出てきたわけです。
これは、客観的事実をそのまま評価しながら意味づけをせずに、一般的な善悪などの価値観の影響も受けないようにすることで達せられるでしょう。
つまり、客観的には悪というものも正確に認識しつつ、主観的には悪という判断の影響を受けない状態を保つということです。

そう思うと、何だかより楽しく世の中が見渡せるような感覚が生まれてきたのでした。

谷 孝祐
2015.4.15 18:23