私は、将来やりたいことがたくさんある。

その中でも、赤ちゃんと一緒にいれる仕事がしたいなと心から思っている。

そして、私は赤ちゃんとそのお母さんが幸せになれるような支援がしたい。
お母さんともたくさん話せるような、そんな関係をつくって、色々犠牲にしているお母さんができる限り自分らしくいられるような、そんな生活を送っていけるような支援がしたい。

そのためにはやっぱり経験が必要だ。経験がほしい、と思う。


今日も友達とその赤ちゃんに会うことができた。
それは本当に素敵なことだ。

私がこうやっていきたいんだよね!と少し恥ずかしいけど素直に話すことができた。
それはとても意味のあることだと本当に思う。

本当は私を頼ってくれるお母さんがほしいけど、むりやりそれをしてもそれが負担になってしまったら本末転倒だから、「これをあなたにやってほしい」じゃなくて、「私はこれをやりたい」と話すことを最近心がけている。

それを聞いて私を選ぶか選ばないかはその人の自由だし、その人にとって私が必要だったら自然とそうなっていくんだろうな、と思う。


そういう距離の取り方を、今私は少しずつ経験しながら学んでいる。

「こう言ったら厚かましいとか思うかな」「どういう言い方をしたら、この人は喜んでくれるだろう」とか、私はそんなことばかり考えていたように思う。
それが「気を使う」ことだと思っていたし「思いやり」だとも思っていた。

でも、それは同時に「どうしたら私を必要としてくれるだろう」と考えていることと一緒だった。
私はずっと人の目を気にして生きてきたし、必要とされること、好かれることが自分の価値を上げることだと思っていた。

だから、私はその人が私を気に入ってくれないと、すごくショックを受けていた。
私は選んでもらえなかった。それくらいの価値なんだ。

と自分の価値をその人の評価によって決めていた。


最近は「そんなことをしても、自分が可哀想なだけだな」と思っている。

自分の価値を決めるのは自分だ。
どんな年齢で何をしていても、自分が”よい”と思っていれば、それは自分にとっての100%の幸せである、と思っている。

それでも、「不自然な普通」の軸で世間と比べてしまって苦しいときもある。

でもでも、この自分を幸せにするのは自分しかいないのだ。

自分の心も、自分の身体も、自分の魂も幸せにするのは自分しかいない。


3年半くらいやっていた派遣を辞めて、6年間付き合っていた彼と別れた自分には、大好きな家族と友人と、そして大事なものを失って傷ついている自分がいた。

家族も友人も、私を幸せにするために一緒にいるのではない。家族も友人も、傷ついた私を慰めるためにいるのではない。

私が私らしくあることで、喜んでくれるために一緒にいるのだ。

「よかったね」って一緒に言って、「嬉しいね」ってその喜びを共有するために、大事な人がいる。


だから、私はどんな時でも自分らしくいる必要がある。
私は私のために、自分を幸せにする。


そう思えるから、「自分が自分らしくあることがその人にとっても幸せ」とある種すごいわがまま娘みたいな気持ちで人と話している。

気に入られることや好かれること、選んでもらうことが、自分の直結の幸せには繋がっていないのかもしれない。


恋人は、私を幸せにするためにいる、と本気で思っていた私のすごい変化なのだ。

こうやって少しずつ自分を幸せにしていこう。
時間はたくさんあるのだ。可能性だってたくさんある。
限られた時間のなかで、頑張るのも休むのも自分で選べるのだ。


今日は動けてよかったな。
というか今週は4日間も人と会っていろんな話ができた!
これからも自分のやりたいことだけやっていこーっと!