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2010-11-30 07:09:27

第140回_藤田田_万国共通最も大切なことは約束を守ること

テーマ:外食

人としてもビジネスをする上でも最も大切なことは「約束を守ること」であることは万国共通なようである。




伝記作家の第一人者、故・小島直記(こじまなおき)と財界きっての読者家といわれた故・平岩外四(ひらいわがいし)(東京電力会長、経団連会長)が雑談のなかで読書論となり、フランスの文豪メリメの作品の話になった。「カルメン」「タマンゴ」「エトルリアの壺」「マテオ・ファルコーネ」「それらの作品の中で一番お好きなのはどれですか?」と小島が聞くと「マテオ・ファルコーネです」と平岩が答えた。これには小島も思わず唸ってしまったという。何故なら小島の評価と期せずして一致したからだそうだ。


一般的にメリメの不朽の名作といえば「カルメン」であろう。私もカルメンは面白かったがそれ以外の作品は特に印象がない。「マテオ・ファルコーネ」はそんなに面白いのかと2度程読み直してみたがやっぱり良く分からなかった。コルシカ島が舞台で父親が教えを守らなかった10歳の一人息子を「裏切り者」といい銃殺してしまう話であるのだが、何でもあれだけの短編の中で「約束を守る大切さ」を教えているところがいいというのである。


あらゆる自伝、他伝を熟読している小島と財界総理といわれる経団連会長にまで登りつめた平岩の洞察だけに興味深い。人としても会社の経営をするにあたっても一番大切なことは「約束を守ることである」ということを深く感じているからであろうが、このことは万国共通なようだ。

 

1964年(昭和39年)、慶応大学を卒業し父親のガンによる急死により実質的に林原グループの社長として林原健(はやしばらけん)が舵をとるようになったのは22歳の時であった。林原グループは水飴製造業から出発して発展した岡山最大の財閥である。当時林原だけで600人、グループ全体では3000人以上従業員がいる堂々たる中堅企業であった。


林原健がまだ20代の頃、大塚製薬の創業者、大塚正士(おおつかまさひと)と親しくしており大塚から言われた言葉をずっと大切にしたという「お前も大変だろうけど、商売っていうのは、そんなに皆が言うほど難しくない。でもこれだけは守れ。約束だけは守れ。できない約束はするな。もうこれだけだ。これさえ守れば何とかやっていける」とこの約束というのは、法律も含めてあらゆることに優先する。仕事だけではない。女性に対しても飲み屋でも家でも全ての約束を守るように心がけたという。


林原健は林原グループをガンや肝炎の治療薬・インターフェロンや夢の糖質といわれるトレハロースなどの画期的な医薬品・糖化製品を生み出し続ける研究開発型企業として見事に発展させた。




経済小説のパイオニア故・城山三郎はあるカナダ人の実業家が息子へ書いた手紙を集めた本を読んで、心が動かされた。この実業家は心臓病で命が危なくなることが2度あって、自分はもういつ死ぬかも分からないので、とにかく「どう生きたらいいか」ということだけは息子に伝えておこうと発心して書いた手紙である。感銘を受けた城山は翻訳することにした。それがキングスレイ・ウォード「ビジネスマンの父から息子への30通の手紙」である。


この本の中に「とにかく人に信頼される人間になれ」「この世で一番大事なことは、人に信頼され、信用されることだ」という内容があるがウォードが手紙で繰り返し説かれた重要なメッセージであった。 




日本マクドナルドの創業者、藤田田(ふじたでん)は仕事で一番大切なことを挙げるなら、それは「信用」だと言い切る。まだマクドナルドを始める前の藤田商店の時代、得意な英語を活かし貿易をやっていた頃のこんなエピソードがある。


新潟県燕市の高級洋食器を、米国のユダヤ人に売る話がまとまった。国内の業者に発注したはいいが、納期が迫っても、中々、商品が届かない。聞けば、産地では食器の生産業務は、農閑期には余剰労働力を活用して製造を行うが、ちょうど田植えのシーズンに当たっていて農作業から手が離せないということであった。慌てて、何度も催促し、ようやく製造・納品させた。


ところが、今度はユダヤ商人との約束期限が迫っていた。当時、高い洋食器などかさばる物は、船便で長期間かけて搬送するのが常であった。だがとても間に合わない。そこでバカ高い搬送料金を払って、航空便でビジネス相手のところに送ったのである。当然大赤字であったが、藤田は絶対に約束を守ろうと思っていた。そして、この商品が無事に相手のところに搬入されると、藤田の信用は一気にユダヤ商人の間に高まった。当の相手から、以後も継続して仕事の話がくるようになった。「藤田は信用できる男だ」とユダヤ商人のネットワークが通じて広まり仕事の幅が拡大していったという。





文責 田宮 卓





参考文献


「藤田田流創業指南 我かく生きビジネスに勝利す!」

山口廣太 経林書房

ジーン・中園 「藤田田の頭の中」日本実業出版社

「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択この決断」

 船井幸雄 監修 三笠書房

林原 健 「独創を貫く経営」日本経済済新聞社

小島直記 「回り道を選んだ男たち」 新潮社文庫

城山三郎 「逆境を生きる」新潮社

「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」

城山三郎訳 キングスレイ・ウォード 新潮社

メリメ 「カルメン」新潮文庫


















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2010-11-28 09:11:41

第139回_クロヨンダム_決意が人の心を動かす

テーマ:電力

従業員の士気を上げるには何をすれば良いか?給与を上げるのが手っとり早いが先行きの見えない不景気の今、そんなゆとりのある企業はないであろう。ではどうすればいいか。それはトップが腹を括ることである。何時の時代もトップの決意が人の心を動かす。

 

1962年(昭和37年)、キューバに旧ソビエトのミサイル基地の建設が進められている事実をアメリカが知った時、ときの大統領ケネディはどうしたか。ミサイル基地はすでに90%まで出来上がっていた。一刻も猶予のならない緊張状態である。ケネディは敢然と立ちあがった。そしてソ連のフルシチョフ首相に対して、キッパリと言い放った。

「アメリカとの目と鼻の先のところに、ソ連のミサイル基地がつくられていることを黙認出来ない。アメリカとして許容出来ない。だから、その基地をソ連の手で撤去してほしい。もし、ソ連の手で撤去しないのであれば、アメリカの手で撤去する」この敢然たる通告に対して、ソ連のフルシチョフはどう対応したか。結論として、そのミサイル基地をソ連自身の手で撤去したのである。一兵を損せずして、アメリカは自分の主義を通した。ケネディの断固たる決意がソ連を動かし、アメリカの望むとおりの決定をさせたのである。


トップの決意が国を動かした一例だが、当然普段の企業活動においてもトップの決意が大きく影響する。


関西電力初代社長に就任した太田垣士郎(おおたがきしろう)は大型水力発電所の建設に踏み切った。当時、関西方面は深刻な電力不足に見舞われ、たびたび停電が発生する惨憺たる状況だったからだ。これが有名な黒部川第4発電所(いわゆるクロヨン)である。

1956年(昭和31年)、太田垣の決断で関西電力が黒部川第4発電所(クロヨン)の建設を着手した時、日本アルプスの山脈をぶち抜いて建設資材の運搬道路(現・関電大町ルート)をつくり、そのうえで黒部川の上流に世界最大級のアーチ式ダムを建設するという超ビックプロジェクトは世界で反響を呼び、やがて無謀そのものという非難の集中砲火を浴びることになった。着工して8ヶ月後、心配していた破砕帯(はすいたい)に遭遇。大量の冷水が吹き出して工事は中断を余儀なくされた。内部は滝か川かとみまがうばかり。地下水の噴出を止める手当てはことごとく失敗する。「クロヨン絶望か」「関電、経営危機」などと報道された。計画中止もやむ無しの状況であった。しかし太田垣は腹を括り計画続行を決断するのだがこの後の太田垣の行動が現場で働いている作業員の士気を上げた。現場はトンネル崩壊の危機に浮足だっていたが、なんと社長自らが現地入りし、制止を振り切り危険な破砕帯にずぶ濡れになりながら足を踏み入れていった。「でかい仕事に困難は当たりまえじゃないか。私は絶対に諦めない。クロヨンはあなたがたにかかっている。一緒に苦労して、一緒に喜びあおう」太田垣は作業員の肩をたたき励まして廻った。2時間もトンネルから出てこなかった。忙しい中5日間も現場にとどまったという。この社長の捨て身の行動に作業員の士気は一気に高まった。


クロヨンは1963年(昭和38年)に完成へとこぎつけた。総工費513億円と延べ一万人の労力を注ぎ込み、さらに167人もの犠牲者を出すという、8年間に及んだ難工事の末での完成であった。

 



文責 田宮 卓





参考文献


 

20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫

「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」

青野豊作 講談社

「心を強くする指導者の言葉 逆境に克!」

ビジネス哲学研究会【編著】 PHP
松下幸之助 「人を活かす経営」PHP文庫












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2010-11-21 22:41:40

第138回_井植歳男_日本経営史最大の謎は女が原因であった

テーマ:家電

2009年(平成21年)12月にパナソニックの子会社となった三洋電機の創業者、井植歳男(いうえとしお)が松下幸之助の義理弟であったことは知られているが、井植は松下電器(現パナソニック)を創設した時の創業メンバーでもあった。創業以来、井植は松下の片腕となって松下電器の発展に貢献していった。しかし終戦後の1946年(昭和21年)松下電器の専務の立場にあった井植は突如退社し翌年に三洋電機を創業することになる。


何故突然、井植は松下電器を辞めたのか日本経営史の大きな謎の一つであった。松下と急に不仲になったともGHQの公職追放指定に伴うものともいわれるがはっきりしたことは分からなかった。


ところが一冊の書物がその謎を簡単に解いてくれた。雑誌「経済界」の創業者、佐藤正忠(さとうせいちゅう)の著書「蘇る秘訣」(経済界)に井植の三洋電機創業の動機が記されていた。


佐藤正忠は井植歳男に息子のように可愛がられていた。ある時、井植が「三洋電機が成功したのは、女性が原動力なんだよ」と言ったことがあったという。むろん。女性が原動力といってもこの場合、女性社員の力という意味ではない。松下電器で専務として松下幸之助を補佐していた井植であったが、秘書として井植を助けていた女性に惚れてしまったのだ。井植には妻子はいたが彼女も物にしたかった。専務といっても当時の松下電器の給料では、二軒の家を維持することはできない。そこで「えいっ」と独立を決意したという。「ホンマ言うとな、女がいなかったら、三洋電機はできなかったよ・・・」と佐藤に語ったという。ところが、もう一人彼女が出来てしまい彼女にも家を与えることになる。それでは終わらず井植には5人の彼女を出来てしまい皆に家を与えることになる。井植の凄いところは、彼女をつくるには女房を、経済的にもセックスの面でも不自由させてはいかん。だから大変だよ」といい。一旦付合った彼女は決して途中で切ったり捨てたりせずに最後まで面倒をみたところだ。女性に対するのと同様、男に対しても誠実であった。井植は女を幸せにするため必死に働き、その結果が三洋電機を東証一部上場にまで育て上げたのである。佐藤が直接、井植から聞いた話であり、公にはあまりしずらい内容であることから、経営史の謎とされてきた井植の松下電器からの独立は、女が原因であったことは恐らく真実であろう。


それはさておき昔は女性に対して実に面倒みが良く度量の大きい経営者や政治家が多くいたものだ。自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者である大物政治家、三木武吉(みきぶきち)のこんな話もある。


義理人情の政治家三木武吉は演説名人で知られていた。戦後間もなくの総選挙でのこと。立会演説会をしている三木に向かってある婦人団体の代表者が質問をしてきた「三木先生、ただ今のお話をお伺いしてますと、まことに結構なお話のように承わりますが、先生には5人の妾(めかけ)さんがいらっしゃると聞いております。この先生の行動と今のお話には矛盾があるのではないでしょうか」なんとも痛い質問である。ところが三木はこう切り返えした「ただ今の質問には数字的に誤りがあります。このような公の場で間違ったことを言ってもらっては困ります。私に妾が5人おると申されましたが、5人ではなく7人であります。しかも皆幸せに暮らしております。今日では彼女達も老来廃馬、もはや役には立ちません。と言うても、彼女達を捨て去るという不人情はこの三木にはできません。従っていまもなお面倒をみておるのであります!」これには聴衆も拍手喝采であり返って人気が上昇した。


政治家が女性スキャンダルで失脚するようになるのは宇野宗佑(うのそうすけ)元首相の女性スキャンダル事件の頃からではないかと思うが、手切金をケチったり、女性に恨みや妬みを買うようでは大器の器とはいえないのであろう。   

文責 田宮 卓

参考文献

佐藤正忠 「蘇る秘訣」 経済界

小林吉弥 「総理になれなかった男たち」経済界

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