ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/089/26(木)💖💓💛💖

 

● 第二日課:ヤコブ5:11-20
 5:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。 5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。 5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 5:16 だから、主に癒していただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。 5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。 5:19 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、 5:20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。

:今週のテーマ【律法の精神】

【聖句断章】 5:11
忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。  

@ 【ヨブの忍耐】は最後はハッピーエンドで終わる。そしてそれを想起させるヤコブが指し示す 【キリスト者の忍耐】の最後もハッピーエンドである。

* マタイ 24:13 ≪しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。≫ これは終わりの時の教会の忍耐の文脈の最後のことばである。それは、殉教さえ視野に入っている忍耐である。しかしそれでも、最後は【救われる】。ハッピーエンドで終わる。

* ヨブの場合にも殉教時代のキリスト者の場合にも、結局、救いは神との出会い、交わりの中にある。≪ 主が最後にどのようにしてくださったかを私たちは知っています。≫ これがヤコブのこの書の目標である。ヤコブがこの書で勧め、初代キリスト教が勧める忍耐はそのような忍耐である。

* パウロはローマ5:3 以下で ≪そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。≫ パウロが言う忍耐は、人間の最高の栄誉である確かな希望へのステップとしての忍耐である。そしてそれは聖霊のみが与える希望である。≪希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。≫

* その栄光に入る前に、我々は、苦難を受け、それを忍耐し、それによって練達者へと鍛り上げられる。練達者は確かな一点としての希望を見失うことはない。だから、人生の山や谷に一喜一憂するな。さらに、【死の陰の谷を行くとき】にさえ動ずるな。【主がわたしと共にいてくださるから】。

* ヤコブ書5章はヤコブ書全体のゴールの章である。その中でヤコブは淡々として動じないことを強調している。 ≪わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。≫ と。目の前の現実を最終現実であるかのように大げさに受け取るな。【「然り」は「然り」とし、「否」は「否」】と、現象と現実をありのまま直視しよう。その現実はあまりにも過酷なように見えるかもしれないが、その一つ一つを直視し、それさえも主の許しのもとに起こっていることの意味と意義を考えよう。今の現実が終わりではない。終わりはまだ来ない。これからだ。だから、忍耐してその時を目ざして進もうではないか。

* 偽りがますます増幅する世界がどのようにして始まり、どのように展開され、そしてそれがどのように終わるのかを、主が知らせてくださるままに知ることは、今私たちが置かれている場所をGPSのように正確に知る術を与えてくれる。

* それでも苦しみは襲来する。その時こそ祈りを学ぶ時となる。祈りはお飾りではない。祈りしか後がない時、人は天に向かう叫びとしての祈りを学ぶ。ヤコブはそのような前提から祈ることを勧めている。 ≪あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。≫  そしてその祈りが叶えられたら、その都度、≪賛美の歌を歌いなさい≫。我々の人生と人類の歴史は、終わりの時に至るまでその繰り返しである。嵐の後、何一つ曇りのない晴天の時が来る。ヨブの時のように。

* ≪主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。≫(ヨブ38:1 ) ヨブに遂に嵐が来た。そこでヨブは神に直面し、神の問いに答えなければならなくされた。それはヨブ記38-42章まで続く、神の長い長い自己顕示の啓示を受け止めることであった。そこではじめてヨブは自分の無知を悟らされ、神の前に降伏し、悔い改める。 そうして彼を歪めて理解・誤解・曲解さえした友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。≫

* ここからはヨブ記の最後の言葉まで、少々脚色が過ぎる感はあるが、ヤコブと共に、【喜んで賛美の歌を歌いつつ】ヨブの喜びを分かち合おう。≪主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だから≫。

   ≪兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。≫

💓    では今週のテーマ【律法の精神】について、ヤコブは何と言っているのだろうか。彼の忍耐の強調は、ヤコブがパウロと共に、神が律法を授けた唯一の精神は、神との永遠の栄光へと我々を案内するためだと、魂の底から訴えているのだとおもう。それはわたしの心の思いでもある。律法は神との交わりのためにこそ、そしてそのためにのみ存在する。

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