お寺を出た僕は、さてどうしたものか…としばらく歩きながら想いを巡らせた。
親族も知らなければ、友人関係などもっとわからない。
僕が唯一知っているのは父の電話番号だけだったが、本人は亡くなってしまった。
兄や姉はこのことを知っているのだろうか?
母は知っているのだろうか?
サンフランシスコにいる姉とは、残してきた荷物のことなどの業務連絡をメールで年に数度はしていたが、兄とはもう10年以上連絡を取っていなかった。
母に至っては連絡先も、どこにいるのかさえ知らない。
僕は姉にメールで、”いつでもいいからすぐに電話連絡してほしい”という文面と連絡先を送った。
とにかく、事実関係を確認しなければならない。
僕はその足で、大倉山駅にある港北区役所に向かった。
父の電話番号の市外局番から考えて、死亡届が出ているとしたら、そこに提出している可能性が高かった。
「あの~、ちょっと話がよくわからないかもしれないんですが、父が亡くなったことを墓参りをした先ほど知りまして、僕自身は母方の名前を名乗っているので名前が違うので証明も出来ませんが、2ヶ月前に亡くなっていたようなので・・・、その…どうやって調べたらいいでしょうか?」
僕は状況をどう説明していいか分からず、不器用にもほどがある質問を投げかけてしまった。
区役所の若い女性はひどく困惑しているようだった。
「あぁ、えーっと、お父様がお亡くなりになったのですね。で、何をお調べしたらよろしいでしょうか?」
と女性はなんとか僕の言っていることを理解しようと優しく投げかけた。
「ああそうですよね。えっと、どうやって死んだとか、誰か看取ってくれた方がいるのかとか、死亡届は誰が出したかとか…」
「なるほど…そういうことでしたら戸籍謄本を調べてみますので、少々お待ちください。」
こういうことに不慣れというか、慣れている人は珍しいのだろうが、我ながら自分のテンパり具合が情けなかった。
戸籍謄本の死亡届欄には父の姓の、おそらくは親族の方であろう氏名が記載されていた。
「この方の連絡先なんかを教えていただくことはできませんか?」
「申し訳ありませんが、個人情報なのでこちらではお教えすることはちょっと…」
「…そりゃそうですよね…」
女性は何か別の方法がないかと思案してくれたが、結局、区役所で対応できることではないらしかった。
僕は女性に感謝を述べ、戸籍謄本のコピーを持って区役所を出た。
とにかく動くしかない。
ほんの少しの手掛かりでも見つけなければ。
僕は戸籍謄本に載っていた住所に行くことにした。
地図を検索すると、隣の綱島駅から歩いて15分くらいの場所であることがわかった。
駅を出て、うだるような暑さの中、僕はその住所を目指した。
朝から何も食べていなかったが、空腹感はなかった。
目を覚ますと、巨人がベッドでタバコを吸いながらスプライトをグビグビと飲んでいた。
「おう、起きたか、おはよう」
たぶんそう言ったのであろう、イーサンの低い声はさらに低くしゃがれていた。
「アベッドは大学に用があるって言って出掛けたぞ」
イーサンは英語が喋れなかったのでジェスチャーでペンを空中に走らせ、大学を表現した。
携帯の時計を見ると8時過ぎだった。こんな早くに大学に行って何をするんだろう?
「いよーーーーーし、飯を食いに行こう」
とイーサンは大蛇が炎でも吐くように伸びをしながら欠伸をして起き上がった。
僕らは着替えて大通りに向かった。
大通りは昨日のことが嘘のように日常の風景に戻っていた。
花火のカスや薬莢、タバコの吸殻でいっぱいだった地面も綺麗になり、
通り沿いの店は開店の支度に忙しそうだった。
「なんか食いたいものはあるか?」
とイーサンは聞いてきたようだったので、僕は任せるよ、と両手の平を上に向けて肩をすぼめた。
「ファラフェルにするべ」
(※ひよこ豆を潰してハーブや様々なスパイスを練り込んだコロッケのような食べ物)
イーサンはカウンター越しにいる顔なじみの店主に、”いつもの”的にジェスチャーだけでオーダーすると、店主は揚げたてのファラフェルをピタパンにボンボン放り込み、生たまねぎや青唐辛子、トマトや葉物を入れて、ほらよ、とこちらに渡した。
持ってみるとあまりのずっしり感に朝から気が重くなったが、食べてみるとびっくりするほど美味い。
正直僕はこの旅に出るとき、食事にはあまり期待していなかった。
どちらかといえば、当たらなければいいなぁくらいに思っていた。
が、僕はこの旅であれだけ歩いて汗をかいていたのに体重が全く変わっていなかった。
飯が美味すぎたのだ。
トルコのバーベキューや
ギリシャのイカリングやヨルダンの大衆食堂で食べた丸鷄
そしてこのファラフェルは今思い出しても食べたくなってしまう。
どうしても食べたくなって、帰国後、東京のイスラエル料理屋に行ってしまったほどだ。
残念ながら風土も違えば材料も違うその味には物足りなさを感じてしまったが…。
他にも羊肉のケバブや、叩いて伸ばしてカリカリに揚げた鶏肉、青唐辛子を齧りながらフムス(ひよこ豆にニンニクやオリーブオイルなどを加えたペースト。ピタパンにつけて食べる)をピタパンにつけて放り込み、ヒリヒリの口の中を生たまねぎのシャキッとした爽快感で潤す”フムス定食”は絶品だった。
気づけば、1日1.5食が基本の僕が、朝昼晩3食きっちりとっていた。
僕がハフハフ言いながらファラフェルサンドを半分くらい食べると、すでに食べ終わったイーサンは、もう1つ食うか?と僕に促した。
うまい・・・、うまいがそれは無理だよイーサン。
彼は僕が食べ終わるまでにファラフェルサンドをもう一つ、スプライトを3缶飲み干していた。
家は小学校の裏手の小道を入ったところにあった。
周りの家に比べると少々見窄らしい感じの一軒家の玄関には、なぜかスノーボードのセットが一式あった。
外灯の横に古い木で作った表札が掛かっていた。
”ーーー”
父の名前がそこにはあった。
誰か住んでいるのだろうか?と思うほどに家の中からは生活感のようなものが滲み出ていた。
僕が20歳の頃から考えても、15年もあれば、新たな家族ができたのかもしれない。
僕は鉄の門扉を開け、恐る恐るチャイムを押した。
鈍いジトッとした音が家の中を巡った。
何度か鳴らしてみたが、人が出てくる気配はなかった。
玄関のドアに手をかけて引いてみると、しっかりと鍵がかかっていた。
どうやら、”だれもいない”ようだ。
僕はふーっと溜め息をつき、いかにもな主張をしているスノーボードを見た。
”そうだ!寺だ!!”
スノーボードが卒塔婆のように見えたかどうかは覚えていないが、とにかくそれを見た瞬間に僕は閃いた。
(何をバカなと思われるかもしれないが、墓参りさえ30過ぎてから初めて行った僕にとって、寺との付き合い方やら何やらはあまりにも未知なことだったのだ、ということを考慮していただきたい)
寺なら納骨してくれた人をはじめ、何かしらを知っているに違いない。
人間にとっての一番の罪は行動しないことだ、と誰かが言っていたが、
動いているとこういうポンっと出てくるようなアイデアがたまに降りてくる。
僕はそんな時、卵を腹の中から出すような感覚にとらわれるのだが、その度に
なぜか自分自身がピッコロ大魔王のように思えてくる。
”ポコペン ポコペン ポッポコピー”
僕はすぐに寺の名前を検索し、記載されていた電話番号に電話した。
「私、ーーと申しますが、実は父が2ヶ月ほど前に亡くなっているのを先ほどそちらに伺った時に初めて知りまして、あ、父とは名字が違うんですが、何か知っていることをお聞きしたいのですが…」
「あの~、何を言っているかわからないのですが…」
電話先の女性は半ば呆れ気味にそう言った。
今度のテンパりはあまりにいいアイデアが浮かんだために興奮してしまっていたテンパりだったが、同じ轍を踏むとは…愚かしい。
僕は今度は落ち着いて状況を説明した。
「すみません、2ヶ月ほど前、父ーーーが亡くなったようなのですが、お恥ずかしながら、先ほどそちらに墓参りをした時にそのことを知りまして、今区役所に行って、死亡届けを確認したら親族の方がいるようだったので、その方の連絡先を知りたいのです。」
「ああ、ーーさん。ええそうですね、本家の方が見えられて、2ヶ月ほど前に納骨されました。」
本家?耳慣れない言葉が少し引っかかったが、女性はようやく話に合点がいったようだった。
「ありがとうございます。僕は父の次男なのですが、長い間離れていたので、親族の付き合いなどがあまりわからないのです。」
「そうでしたか。ちょっと待ってくださいね」
女性は快く、”その方”の電話番号を教えてくれた。
僕は電話番号を手帳に書き留め、駅に向かった。
家に着いたのは17時を少し回った頃だった。
シャワーを浴び、冷蔵庫からビールを取り出してグビグビと一気に飲み干した。
”そういえば酒が飲めるのは父と僕だけだな”
と、僕は思った。
母も兄も姉もほぼ下戸だ。
僕だけがタバコを吸い、酒を浴びるように飲む。
酔った時のタチの悪さまでも引き継いでしまっているのは大変残念ではあるが。
僕は”その方”の電話番号に電話した。
何度か電話してみたが、留守番電話に切り替わってしまったので、僕は自分の連絡先をメッセージに残した。
店を出ると通りを挟んだ小道から電動自転車に乗るアベッドが見えた。
「おはよう!」
「おはよう、こんなに早くから大学に行ってたのかい?」
「え?大学には行ってないよ。家に帰ってシャワーを浴びて来たんだよ」
おいイーサン、お前にとってのシャワーはペンほどの大きさなのか?
「そっか。僕は荷物をピックアップしたら、エルサレムに行くよ」
「まだいいじゃないか、お茶を飲む時間くらいあるだろう?」
時間は朝9時になろうとしていた。
「それがそんなに時間がなさそうなんだ。午前中にはエルサレムに着かないと。ここからだと1時間くらいかかるからね。それにもしも検問があったら事だし…」
「そうか、まあしょうがないね。よし、それじゃあみんなを呼んでくるよ」
そう言うとアベッドは坂道を自転車で駆け下りていった。
家の前にはお婆ちゃんとベビーカーに乗ったウェイウェイ(赤ちゃんの名前らしい)がいた。
親方はどうやら外回り?の仕事をしているらしく、不在のようだった。
それにしても朝からよく働く。
ウェイウェイは人見知りしない性格らしく、抱き上げるとキャッキャ言いながら僕の顔をペシペシと叩いた。
そのペシペシが数年後にはイーサンのようにトラックを持ち上げる怪力になると思うとゾッとした。
「あんた英語ばっか喋ってないで、今度来るときはアラビア語を話せるようになっておいで」
お婆ちゃんはアングリーバードのサンダルを履きながら、優しくそう言った。
僕は、”そうします”と頷き、アラビア語で、”シュクラン(ありがとう)”と伝えた。
するとお婆ちゃんは、”そうそういい子だね”と嬉しそうに言い、家の中に入って行った。
「短い間だったけど、いろいろありがとう。本当にいい時間を過ごすことができたよ」
「僕らこそありがとう。とても楽しかったよ。寂しくなるね」
「ああ…。時々Facebookで連絡するよ。アラビア語は難しそうだから、グーグル変換で挑戦してみるよ(笑)親方にもよろしくね」
「うん(笑)。バスのところまで送るよ。」
僕らが再び大通りに戻ると、イーサンは急に車道に走り出したかと思うと、結構な速さで走っていたセルビス(乗り合いバス)を止めた。
僕には最後までどれがセルビスだか全く見分けがつかなかったが、彼らにしかわからないマークでもあるのだろう。
「またね!」
「うん、また!」
僕らは互いに固い握手を交わし、再会を誓った。
僕は密かに合気道の技、”握手投げ(握手をした瞬間に手首の関節を決めて落とす技)”をイーサンに仕掛けたが、どうやら彼には僕が何をやっているかわからなかったようだった。その握手は、ヒップホップをかじりたてのラッパーのような感じになってしまった。
僕はトランクに荷物を放り込み、セルビスに乗り込んだ。
”さらば、友よ!”
姉から連絡があったのは深夜12時を少し回った頃だった。
「どうした~?元気~?」
アメリカにすでに20年以上滞在している姉はあっけらかんとしたいつもの調子だった。
「なんかあった~?」
「ああ…あのさ・・・」
僕はしばらく言葉が出なかった。
姉のことを気遣ったからではない。
父の事をなんと呼んでいいのかわからなかったのだ。
お父さん、父さん、親父、父…
僕は”彼”の事をなんと呼んでいたのだろう?
いっそのこと英語でしゃべったほうが楽なような気がした。
「…あの~さ…」
「うん?なに~?」
「うん…あの~…父親が死んだ…」
「・・・!」
電話の向こうの姉は一瞬何を聞いたのか理解できないようだった。
そして絞り出すように
「…どうして…」
と言い、咽び泣いた。
僕は今日の経緯を端的に伝え、どうやら親族の方が看取ってくれたらしいこと、そしてその方からのコールバックがないことなどを伝えた。
僕が淡々と伝えたので、姉は幾分落ち着きを取り戻したようだった。
「とにかく今は、事実関係がよくわからないからその方のコールバックを待つしかないんだけど、とりあえず兄貴と母親の連絡先を教えてくれるかな?」
「うん、わかった、ちょっと待って…」
何かあったらすぐに連絡するからなるべくメールを早く見て欲しい、
僕は姉にそう伝え、電話を切った。
時計は深夜の1時を指していたが、兄の奥さんが電話先に出た。
僕は彼女に、”緊急なことで遅くに申し訳ない”と断りを述べ、兄の所在を聞いた。
兄はさっき帰ってきたらしく、すぐに電話先に出た。
「おう、どうした?」
最後に兄の声を聞いたのは20歳を少し過ぎた頃だっただろうか?
僕の知っている兄の声からは幾分高くなった声色が昔の記憶を一瞬にして思い出させた。
「ああ、遅くにすまない。もう知っているかもしれんのだけど…」
「うん?なに?」
「…父親が死んだ」
「そうか」
兄は間髪入れずにそう言った。
やはり…と僕は思った。
僕はどこかで兄を疑っていた。
2ヶ月以上も前に父が亡くなり、その情報が長男である兄に伝わっていないというのは考えにくかった。
「…知ってたのか?」
後ろで子供が泣く声が聞こえた。
姉から兄に子供がいることは伝え聞いていた。
父親は兄のことをとにかく嫌っていた。
”兄が生まれた時、あの人は抱きもしなかった”、と母親が言っているのを何度も聞いた。
父は兄と顔を会わせるたびに”ガキ”と罵った。
兄は高校受験を控えていたが、毎日毎日酒に酔った父親の暴力から母親をかばい守っていた。
兄の言葉はどこかセリフ掛かっていたが、泣きながらこんなことを言っていた。
「いままでガキだガキだと言われてたけどな、飢える餓鬼って意味だったんだな!」
豆電球の明かりの下、兄はそう言って飛びかかるが、すぐ離れる。殴り合うことができない資質なのだろう。
自分のこどもを餓鬼と呼ぶ父親、兄の背に隠れながら罵倒を続ける母親、震えながら立ち向かおうとする兄、2段ベッドの上からやめてよと叫ぶ姉、布団をかぶりながら祈る僕。
どれくらいそんな夜が続いたのだろう。
僕はいつからか祈るのをやめた。
両親がどうとか、これからのこととか、なんだか面倒くさいゲームのように思えた。
いつ終わるとも知らないこの時が、ただただ嫌だった。
「いや、全く知らなかった」
兄は調子を変えずに淡々と答えた。
僕は自分の詮索が的外れだったことに少し安心したが、兄に対しては何も感じなかった。
「いつ知ったんだ?」
兄はそう続けた。
僕は姉の時と同じ説明をした。
兄は気の無い声で相槌を打ちながら僕の説明を聞いた。
電話を切った後、僕はなんだか肩が重くなった気がした。
10人乗りほどのセルビスは快調に飛ばし、ベツレヘムまで30分もかからずに着いた。
そこから大型バスに乗り換えた直後、渋滞が始まった。
長い車の列の先には検問所とおぼしき建物があり、すべての車がチェックされているようだった。
20分ほどで順番が来て、重装備をしたイスラエル兵がバスに乗り込んできた。
僕は慣れた手つきでパスポートを出すと、彼はそれを見ようともせず、パスされた。
僕がいた時のエルサレムは決して緊張感のある町ではなかったが、出るときと入る時では、検問の量が違った。
結局この後2度ほどバスはチェックを受け、結局エルサレムには11時前に着くことができた。
町は思ったよりも閑散としていた。
通常、夏場のエルサレムはホテルやゲストハウスは1ヶ月前から予約しないと難しいと言われている。
巡礼者や観光客、とにかく人で溢れかえっているのだ。
戦争中、いつテロが起きてもおかしくない状況、停戦直後、そんなところから考えても、今の時期に”来ない”方がベターなのはわかっているが、来た時がその時なのだ。
チェックインは正午からだったが、僕は荷物を預けるためにゲストハウスを目指した。
迷路のような旧市街も慣れたもの、滑りやすい石畳階段をズンズン進むと、商店街の連中の手荒い売り文句が聞こえてくる。
”ヘブロンとは大違いだな”
僕はここに住んでもいないのに、”あぁ帰ってきたんだなぁ”、となんとも言えない気持ちになった。
ゲストハウスには驚くほど人がいなかった。
受付の女性は、ちょっと早いけどまあいいわ、と言って部屋に案内してくれた。
10人部屋のドミトリーには僕の他にデイバックを背負った若いアメリカ人が1人。
これだけ人が少ないと電源(携帯の充電やら何やらで奪い合いになる)の確保が容易いので嬉しいが、出会いが限られてしまうのはなんとも寂しい。
「ブランドンだ」
そう言って彼は握手を求めてきた。
細身の身体に人懐こそうな眼差し、年齢19歳と聞いて驚いたが、大学で考古学を専攻していて、エルサレムには子供の頃から興味があったんだそうだ。
「僕は夏休みを利用して中東を周っているんだ。この辺りには遺跡が多くて、本当ドキドキしちゃうよ。」
「そっか。でもさ、今日はなんでこんなに人が少ないのかな?」
「うーん、どうなのかな?僕が昨日ここに着いた時にはもう少しいたんだけれど」
「旅人の気は移りやすいのかな?」
「ははは、そんな感じじゃないかな?ところで、今日はどこに行くの?」
「うん、岩のドームに行くんだ」
「え?僕も今から行くつもりだったんだ。一緒に行くかい?」
「ちょっとシャワーを浴びてから出たいんだ。昨日から汗だくでさ」
「そっか、じゃあ向こうで会えたら」
「OK!See You Later...」
彼は旅慣れたバックパッカーがよく履いている、ストラップ付きのサンダルに素早く足を通すと、カメラを片手に出て行った。
僕はベッドに荷物を置き、簡単に整理すると、いくぶん水量の弱いシャワーを浴びた。
100円ショップで買ってきた旅の必需品、ゴシゴシタオルで身体をこすり、髪を洗うと、身も心も生まれ変わったような感覚になった。
”さて、出掛けるか…”
親族も知らなければ、友人関係などもっとわからない。
僕が唯一知っているのは父の電話番号だけだったが、本人は亡くなってしまった。
兄や姉はこのことを知っているのだろうか?
母は知っているのだろうか?
サンフランシスコにいる姉とは、残してきた荷物のことなどの業務連絡をメールで年に数度はしていたが、兄とはもう10年以上連絡を取っていなかった。
母に至っては連絡先も、どこにいるのかさえ知らない。
僕は姉にメールで、”いつでもいいからすぐに電話連絡してほしい”という文面と連絡先を送った。
とにかく、事実関係を確認しなければならない。
僕はその足で、大倉山駅にある港北区役所に向かった。
父の電話番号の市外局番から考えて、死亡届が出ているとしたら、そこに提出している可能性が高かった。
「あの~、ちょっと話がよくわからないかもしれないんですが、父が亡くなったことを墓参りをした先ほど知りまして、僕自身は母方の名前を名乗っているので名前が違うので証明も出来ませんが、2ヶ月前に亡くなっていたようなので・・・、その…どうやって調べたらいいでしょうか?」
僕は状況をどう説明していいか分からず、不器用にもほどがある質問を投げかけてしまった。
区役所の若い女性はひどく困惑しているようだった。
「あぁ、えーっと、お父様がお亡くなりになったのですね。で、何をお調べしたらよろしいでしょうか?」
と女性はなんとか僕の言っていることを理解しようと優しく投げかけた。
「ああそうですよね。えっと、どうやって死んだとか、誰か看取ってくれた方がいるのかとか、死亡届は誰が出したかとか…」
「なるほど…そういうことでしたら戸籍謄本を調べてみますので、少々お待ちください。」
こういうことに不慣れというか、慣れている人は珍しいのだろうが、我ながら自分のテンパり具合が情けなかった。
戸籍謄本の死亡届欄には父の姓の、おそらくは親族の方であろう氏名が記載されていた。
「この方の連絡先なんかを教えていただくことはできませんか?」
「申し訳ありませんが、個人情報なのでこちらではお教えすることはちょっと…」
「…そりゃそうですよね…」
女性は何か別の方法がないかと思案してくれたが、結局、区役所で対応できることではないらしかった。
僕は女性に感謝を述べ、戸籍謄本のコピーを持って区役所を出た。
とにかく動くしかない。
ほんの少しの手掛かりでも見つけなければ。
僕は戸籍謄本に載っていた住所に行くことにした。
地図を検索すると、隣の綱島駅から歩いて15分くらいの場所であることがわかった。
駅を出て、うだるような暑さの中、僕はその住所を目指した。
朝から何も食べていなかったが、空腹感はなかった。
目を覚ますと、巨人がベッドでタバコを吸いながらスプライトをグビグビと飲んでいた。
「おう、起きたか、おはよう」
たぶんそう言ったのであろう、イーサンの低い声はさらに低くしゃがれていた。
「アベッドは大学に用があるって言って出掛けたぞ」
イーサンは英語が喋れなかったのでジェスチャーでペンを空中に走らせ、大学を表現した。
携帯の時計を見ると8時過ぎだった。こんな早くに大学に行って何をするんだろう?
「いよーーーーーし、飯を食いに行こう」
とイーサンは大蛇が炎でも吐くように伸びをしながら欠伸をして起き上がった。
僕らは着替えて大通りに向かった。
大通りは昨日のことが嘘のように日常の風景に戻っていた。
花火のカスや薬莢、タバコの吸殻でいっぱいだった地面も綺麗になり、
通り沿いの店は開店の支度に忙しそうだった。
「なんか食いたいものはあるか?」
とイーサンは聞いてきたようだったので、僕は任せるよ、と両手の平を上に向けて肩をすぼめた。
「ファラフェルにするべ」
(※ひよこ豆を潰してハーブや様々なスパイスを練り込んだコロッケのような食べ物)
イーサンはカウンター越しにいる顔なじみの店主に、”いつもの”的にジェスチャーだけでオーダーすると、店主は揚げたてのファラフェルをピタパンにボンボン放り込み、生たまねぎや青唐辛子、トマトや葉物を入れて、ほらよ、とこちらに渡した。
持ってみるとあまりのずっしり感に朝から気が重くなったが、食べてみるとびっくりするほど美味い。
正直僕はこの旅に出るとき、食事にはあまり期待していなかった。
どちらかといえば、当たらなければいいなぁくらいに思っていた。
が、僕はこの旅であれだけ歩いて汗をかいていたのに体重が全く変わっていなかった。
飯が美味すぎたのだ。
トルコのバーベキューや
ギリシャのイカリングやヨルダンの大衆食堂で食べた丸鷄
そしてこのファラフェルは今思い出しても食べたくなってしまう。
どうしても食べたくなって、帰国後、東京のイスラエル料理屋に行ってしまったほどだ。
残念ながら風土も違えば材料も違うその味には物足りなさを感じてしまったが…。
他にも羊肉のケバブや、叩いて伸ばしてカリカリに揚げた鶏肉、青唐辛子を齧りながらフムス(ひよこ豆にニンニクやオリーブオイルなどを加えたペースト。ピタパンにつけて食べる)をピタパンにつけて放り込み、ヒリヒリの口の中を生たまねぎのシャキッとした爽快感で潤す”フムス定食”は絶品だった。
気づけば、1日1.5食が基本の僕が、朝昼晩3食きっちりとっていた。
僕がハフハフ言いながらファラフェルサンドを半分くらい食べると、すでに食べ終わったイーサンは、もう1つ食うか?と僕に促した。
うまい・・・、うまいがそれは無理だよイーサン。
彼は僕が食べ終わるまでにファラフェルサンドをもう一つ、スプライトを3缶飲み干していた。
家は小学校の裏手の小道を入ったところにあった。
周りの家に比べると少々見窄らしい感じの一軒家の玄関には、なぜかスノーボードのセットが一式あった。
外灯の横に古い木で作った表札が掛かっていた。
”ーーー”
父の名前がそこにはあった。
誰か住んでいるのだろうか?と思うほどに家の中からは生活感のようなものが滲み出ていた。
僕が20歳の頃から考えても、15年もあれば、新たな家族ができたのかもしれない。
僕は鉄の門扉を開け、恐る恐るチャイムを押した。
鈍いジトッとした音が家の中を巡った。
何度か鳴らしてみたが、人が出てくる気配はなかった。
玄関のドアに手をかけて引いてみると、しっかりと鍵がかかっていた。
どうやら、”だれもいない”ようだ。
僕はふーっと溜め息をつき、いかにもな主張をしているスノーボードを見た。
”そうだ!寺だ!!”
スノーボードが卒塔婆のように見えたかどうかは覚えていないが、とにかくそれを見た瞬間に僕は閃いた。
(何をバカなと思われるかもしれないが、墓参りさえ30過ぎてから初めて行った僕にとって、寺との付き合い方やら何やらはあまりにも未知なことだったのだ、ということを考慮していただきたい)
寺なら納骨してくれた人をはじめ、何かしらを知っているに違いない。
人間にとっての一番の罪は行動しないことだ、と誰かが言っていたが、
動いているとこういうポンっと出てくるようなアイデアがたまに降りてくる。
僕はそんな時、卵を腹の中から出すような感覚にとらわれるのだが、その度に
なぜか自分自身がピッコロ大魔王のように思えてくる。
”ポコペン ポコペン ポッポコピー”
僕はすぐに寺の名前を検索し、記載されていた電話番号に電話した。
「私、ーーと申しますが、実は父が2ヶ月ほど前に亡くなっているのを先ほどそちらに伺った時に初めて知りまして、あ、父とは名字が違うんですが、何か知っていることをお聞きしたいのですが…」
「あの~、何を言っているかわからないのですが…」
電話先の女性は半ば呆れ気味にそう言った。
今度のテンパりはあまりにいいアイデアが浮かんだために興奮してしまっていたテンパりだったが、同じ轍を踏むとは…愚かしい。
僕は今度は落ち着いて状況を説明した。
「すみません、2ヶ月ほど前、父ーーーが亡くなったようなのですが、お恥ずかしながら、先ほどそちらに墓参りをした時にそのことを知りまして、今区役所に行って、死亡届けを確認したら親族の方がいるようだったので、その方の連絡先を知りたいのです。」
「ああ、ーーさん。ええそうですね、本家の方が見えられて、2ヶ月ほど前に納骨されました。」
本家?耳慣れない言葉が少し引っかかったが、女性はようやく話に合点がいったようだった。
「ありがとうございます。僕は父の次男なのですが、長い間離れていたので、親族の付き合いなどがあまりわからないのです。」
「そうでしたか。ちょっと待ってくださいね」
女性は快く、”その方”の電話番号を教えてくれた。
僕は電話番号を手帳に書き留め、駅に向かった。
家に着いたのは17時を少し回った頃だった。
シャワーを浴び、冷蔵庫からビールを取り出してグビグビと一気に飲み干した。
”そういえば酒が飲めるのは父と僕だけだな”
と、僕は思った。
母も兄も姉もほぼ下戸だ。
僕だけがタバコを吸い、酒を浴びるように飲む。
酔った時のタチの悪さまでも引き継いでしまっているのは大変残念ではあるが。
僕は”その方”の電話番号に電話した。
何度か電話してみたが、留守番電話に切り替わってしまったので、僕は自分の連絡先をメッセージに残した。
店を出ると通りを挟んだ小道から電動自転車に乗るアベッドが見えた。
「おはよう!」
「おはよう、こんなに早くから大学に行ってたのかい?」
「え?大学には行ってないよ。家に帰ってシャワーを浴びて来たんだよ」
おいイーサン、お前にとってのシャワーはペンほどの大きさなのか?
「そっか。僕は荷物をピックアップしたら、エルサレムに行くよ」
「まだいいじゃないか、お茶を飲む時間くらいあるだろう?」
時間は朝9時になろうとしていた。
「それがそんなに時間がなさそうなんだ。午前中にはエルサレムに着かないと。ここからだと1時間くらいかかるからね。それにもしも検問があったら事だし…」
「そうか、まあしょうがないね。よし、それじゃあみんなを呼んでくるよ」
そう言うとアベッドは坂道を自転車で駆け下りていった。
家の前にはお婆ちゃんとベビーカーに乗ったウェイウェイ(赤ちゃんの名前らしい)がいた。
親方はどうやら外回り?の仕事をしているらしく、不在のようだった。
それにしても朝からよく働く。
ウェイウェイは人見知りしない性格らしく、抱き上げるとキャッキャ言いながら僕の顔をペシペシと叩いた。
そのペシペシが数年後にはイーサンのようにトラックを持ち上げる怪力になると思うとゾッとした。
「あんた英語ばっか喋ってないで、今度来るときはアラビア語を話せるようになっておいで」
お婆ちゃんはアングリーバードのサンダルを履きながら、優しくそう言った。
僕は、”そうします”と頷き、アラビア語で、”シュクラン(ありがとう)”と伝えた。
するとお婆ちゃんは、”そうそういい子だね”と嬉しそうに言い、家の中に入って行った。
「短い間だったけど、いろいろありがとう。本当にいい時間を過ごすことができたよ」
「僕らこそありがとう。とても楽しかったよ。寂しくなるね」
「ああ…。時々Facebookで連絡するよ。アラビア語は難しそうだから、グーグル変換で挑戦してみるよ(笑)親方にもよろしくね」
「うん(笑)。バスのところまで送るよ。」
僕らが再び大通りに戻ると、イーサンは急に車道に走り出したかと思うと、結構な速さで走っていたセルビス(乗り合いバス)を止めた。
僕には最後までどれがセルビスだか全く見分けがつかなかったが、彼らにしかわからないマークでもあるのだろう。
「またね!」
「うん、また!」
僕らは互いに固い握手を交わし、再会を誓った。
僕は密かに合気道の技、”握手投げ(握手をした瞬間に手首の関節を決めて落とす技)”をイーサンに仕掛けたが、どうやら彼には僕が何をやっているかわからなかったようだった。その握手は、ヒップホップをかじりたてのラッパーのような感じになってしまった。
僕はトランクに荷物を放り込み、セルビスに乗り込んだ。
”さらば、友よ!”
姉から連絡があったのは深夜12時を少し回った頃だった。
「どうした~?元気~?」
アメリカにすでに20年以上滞在している姉はあっけらかんとしたいつもの調子だった。
「なんかあった~?」
「ああ…あのさ・・・」
僕はしばらく言葉が出なかった。
姉のことを気遣ったからではない。
父の事をなんと呼んでいいのかわからなかったのだ。
お父さん、父さん、親父、父…
僕は”彼”の事をなんと呼んでいたのだろう?
いっそのこと英語でしゃべったほうが楽なような気がした。
「…あの~さ…」
「うん?なに~?」
「うん…あの~…父親が死んだ…」
「・・・!」
電話の向こうの姉は一瞬何を聞いたのか理解できないようだった。
そして絞り出すように
「…どうして…」
と言い、咽び泣いた。
僕は今日の経緯を端的に伝え、どうやら親族の方が看取ってくれたらしいこと、そしてその方からのコールバックがないことなどを伝えた。
僕が淡々と伝えたので、姉は幾分落ち着きを取り戻したようだった。
「とにかく今は、事実関係がよくわからないからその方のコールバックを待つしかないんだけど、とりあえず兄貴と母親の連絡先を教えてくれるかな?」
「うん、わかった、ちょっと待って…」
何かあったらすぐに連絡するからなるべくメールを早く見て欲しい、
僕は姉にそう伝え、電話を切った。
時計は深夜の1時を指していたが、兄の奥さんが電話先に出た。
僕は彼女に、”緊急なことで遅くに申し訳ない”と断りを述べ、兄の所在を聞いた。
兄はさっき帰ってきたらしく、すぐに電話先に出た。
「おう、どうした?」
最後に兄の声を聞いたのは20歳を少し過ぎた頃だっただろうか?
僕の知っている兄の声からは幾分高くなった声色が昔の記憶を一瞬にして思い出させた。
「ああ、遅くにすまない。もう知っているかもしれんのだけど…」
「うん?なに?」
「…父親が死んだ」
「そうか」
兄は間髪入れずにそう言った。
やはり…と僕は思った。
僕はどこかで兄を疑っていた。
2ヶ月以上も前に父が亡くなり、その情報が長男である兄に伝わっていないというのは考えにくかった。
「…知ってたのか?」
後ろで子供が泣く声が聞こえた。
姉から兄に子供がいることは伝え聞いていた。
父親は兄のことをとにかく嫌っていた。
”兄が生まれた時、あの人は抱きもしなかった”、と母親が言っているのを何度も聞いた。
父は兄と顔を会わせるたびに”ガキ”と罵った。
兄は高校受験を控えていたが、毎日毎日酒に酔った父親の暴力から母親をかばい守っていた。
兄の言葉はどこかセリフ掛かっていたが、泣きながらこんなことを言っていた。
「いままでガキだガキだと言われてたけどな、飢える餓鬼って意味だったんだな!」
豆電球の明かりの下、兄はそう言って飛びかかるが、すぐ離れる。殴り合うことができない資質なのだろう。
自分のこどもを餓鬼と呼ぶ父親、兄の背に隠れながら罵倒を続ける母親、震えながら立ち向かおうとする兄、2段ベッドの上からやめてよと叫ぶ姉、布団をかぶりながら祈る僕。
どれくらいそんな夜が続いたのだろう。
僕はいつからか祈るのをやめた。
両親がどうとか、これからのこととか、なんだか面倒くさいゲームのように思えた。
いつ終わるとも知らないこの時が、ただただ嫌だった。
「いや、全く知らなかった」
兄は調子を変えずに淡々と答えた。
僕は自分の詮索が的外れだったことに少し安心したが、兄に対しては何も感じなかった。
「いつ知ったんだ?」
兄はそう続けた。
僕は姉の時と同じ説明をした。
兄は気の無い声で相槌を打ちながら僕の説明を聞いた。
電話を切った後、僕はなんだか肩が重くなった気がした。
10人乗りほどのセルビスは快調に飛ばし、ベツレヘムまで30分もかからずに着いた。
そこから大型バスに乗り換えた直後、渋滞が始まった。
長い車の列の先には検問所とおぼしき建物があり、すべての車がチェックされているようだった。
20分ほどで順番が来て、重装備をしたイスラエル兵がバスに乗り込んできた。
僕は慣れた手つきでパスポートを出すと、彼はそれを見ようともせず、パスされた。
僕がいた時のエルサレムは決して緊張感のある町ではなかったが、出るときと入る時では、検問の量が違った。
結局この後2度ほどバスはチェックを受け、結局エルサレムには11時前に着くことができた。
町は思ったよりも閑散としていた。
通常、夏場のエルサレムはホテルやゲストハウスは1ヶ月前から予約しないと難しいと言われている。
巡礼者や観光客、とにかく人で溢れかえっているのだ。
戦争中、いつテロが起きてもおかしくない状況、停戦直後、そんなところから考えても、今の時期に”来ない”方がベターなのはわかっているが、来た時がその時なのだ。
チェックインは正午からだったが、僕は荷物を預けるためにゲストハウスを目指した。
迷路のような旧市街も慣れたもの、滑りやすい石畳階段をズンズン進むと、商店街の連中の手荒い売り文句が聞こえてくる。
”ヘブロンとは大違いだな”
僕はここに住んでもいないのに、”あぁ帰ってきたんだなぁ”、となんとも言えない気持ちになった。
ゲストハウスには驚くほど人がいなかった。
受付の女性は、ちょっと早いけどまあいいわ、と言って部屋に案内してくれた。
10人部屋のドミトリーには僕の他にデイバックを背負った若いアメリカ人が1人。
これだけ人が少ないと電源(携帯の充電やら何やらで奪い合いになる)の確保が容易いので嬉しいが、出会いが限られてしまうのはなんとも寂しい。
「ブランドンだ」
そう言って彼は握手を求めてきた。
細身の身体に人懐こそうな眼差し、年齢19歳と聞いて驚いたが、大学で考古学を専攻していて、エルサレムには子供の頃から興味があったんだそうだ。
「僕は夏休みを利用して中東を周っているんだ。この辺りには遺跡が多くて、本当ドキドキしちゃうよ。」
「そっか。でもさ、今日はなんでこんなに人が少ないのかな?」
「うーん、どうなのかな?僕が昨日ここに着いた時にはもう少しいたんだけれど」
「旅人の気は移りやすいのかな?」
「ははは、そんな感じじゃないかな?ところで、今日はどこに行くの?」
「うん、岩のドームに行くんだ」
「え?僕も今から行くつもりだったんだ。一緒に行くかい?」
「ちょっとシャワーを浴びてから出たいんだ。昨日から汗だくでさ」
「そっか、じゃあ向こうで会えたら」
「OK!See You Later...」
彼は旅慣れたバックパッカーがよく履いている、ストラップ付きのサンダルに素早く足を通すと、カメラを片手に出て行った。
僕はベッドに荷物を置き、簡単に整理すると、いくぶん水量の弱いシャワーを浴びた。
100円ショップで買ってきた旅の必需品、ゴシゴシタオルで身体をこすり、髪を洗うと、身も心も生まれ変わったような感覚になった。
”さて、出掛けるか…”