今日12/18日曜日は、日本の歴史を考える会研究会で太宰府政庁の防衛施設としての、大野城(おおのじょう)、水城(みずき)、基肄城(きいじょう)の視察に行って来ました。
古代からの大陸との戦いについて考える貴重な機会でした。
拙宅10:30出発、R3、香椎東IC、福岡都市高速、千鳥JCT、環状線、月隈JCT、太宰府線、大野城IC、K60、県民の森センター、ここ四王寺山(しおうじやま)一帯が大野城と言われていた古代の山城です。古代の山城なので天守閣は有りません。
7世紀中頃の朝鮮半島には高句麗(こうくり、最も北側)、百済(くだら、最も南側)、新羅(しらぎ)の三国が有って、新羅が唐と連携して高句麗と百済を滅亡させようとしていた。
663年(天智2年)日本は朝鮮の百済に援軍を送り白村江(はくすきのえ)で唐の水軍に大敗。
朝鮮半島の国との関係は古代から問題が多い様な気がする。
当時から海洋国家であった日本にとっても日本海の荒波を航海する事が困難であったが、騎馬民族の唐には、日本海の荒波を超えて唐の大軍を日本に上陸させることは日本以上に困難であったと思われる。
唐と新羅から(実質、唐)の侵攻を恐れた日本は、国土防衛の為に、664年、博多湾の近くに有った役所を内陸部の太宰府に移転し、福岡平野の最も狭い部分に土塁と濠からなる水城を造営。
更に亡命百済人の技術指導のもとに対馬の金田城や基山町の基肄城等九州から近畿地方まで瀬戸内海沿いに点々と山城を造営した。
それが今も残る朝鮮式山城。この様な歴史背景の中で造営された大野城跡や水城跡共に国の特別史跡に指定されている。
朝鮮の三国は、唐の侵略を受け続け完全に唐の支配下に有った。
その朝鮮の技術指導で造られた山城なので、歴史にifは無いのですが、唐が日本海の荒波を乗り越えて唐の大軍を日本に上陸させることが出来ていれば、恐らく日本は唐に滅亡されていたと思われる。
日本を守ったのは、元冦でおなじみの日本海なのでしょうね〜、大陸と地続きで無くて良かった。恐るべし日本海。
増長天(ぞうちょうてん)礎石、百間(ひゃっかん)石垣を見学、大野城の壮大なイメージを掴むことが出来た。
K60、大野城市の手作りうどんの地車(だんじり)で昼食、ここのオーナーは岸和田出身かー??。ダンジリの写真が店内に飾って有った。
大野城市総合体育館で大野城の百名城スタンプ押印し、パンフレットを頂いた。
水城跡で、往時の土塁跡を見学、必死の防衛施設造営を実感する事が出来た。
高さ8m位だった様で防衛施設として不充分なのでは?と言う感じがした。
中途半端な感じがするけど、朝鮮の技術指導って、もしかしたら唐のスパイかね〜〜って思いました。
R3、K17、K300、基肄城跡、草スキー場を登ると頂上から基肄城の雰囲気が伝わってくる。基肄城は有明海側からの侵攻に備えていた。
K17、K137、天台宗別格本山大興善寺(だいこうぜんじ)参拝、御朱印。大興善寺はつつじの花が有名で、つつじ寺と呼ばれているようです。
k17、筑紫野IC、九州道、今日は福岡ICから古賀IC間が珍しく渋滞していた、古賀IC、K35、R3渋滞の為、太郎丸交差点右折、K534、鷺白橋(さぎしろばし)左折、K503、こちらは裏道なので車が少なくてスイスイ走ることが出来た。
内殿右折、K92、光岡(みつおか)交差点直進、宗像警察署前右折、K97、東郷橋、サウンドパーク宗像東郷店で、夕食兼カラオケのお疲れ様会で締めました。2時間タップリ歌いました、点数が出るので、競い合って楽しく歌うことが出来た。会長が最高得点88点でしたが、世の中にはプロ級の人がいるだろうか、満点の人もいる様だ。
本日の研究会で今年の日本の歴史を考える会は打ち上げです。









