いしつくりのみこ(石作皇子) :求婚者一 (仏の御石の鉢)
くらもちのみこ(庫持皇子):求婚者二 (蓬莱の玉の枝)
右大臣 あべのみむらじ(阿倍) :求婚者三 (火鼠の皮衣)
大納言 おほとものみゆき(大伴) :求婚者四 (龍の首の玉)
中納言 いそのかみのまろたり(石上):求婚者五 (燕の子安貝)
※ 名前の 漢字表記は一例
皇子に大臣・納言…。 いやはや、そうそうたる顔ぶれです。
阿部・石上・大伴の3氏は、書かれた当時でも、既に古臭かったようです。
ともに上古の名族ですが、活躍したのはせいぜい奈良時代までです。
☾ 阿倍氏は、遣唐使の仲麻呂が有名。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出てし月かもですね。
官職では、大化改新の頃の内麻呂が最高の左大臣。
☾ 石上氏は、蘇我氏に本流が滅ぼされた大連・物部氏の一族です。
平安遷都頃の石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の大納言あたりを最後に、高官を出していません。
☾ 大伴氏は、物部と並ぶ武門の家柄。万葉集編者といわれる大伴家持(おおとものやかもち)がいます。
823年、「伴」に改名していました。
「今は昔」とはいえ、大臣や納言を実在らしく見せたいならば、どうでしょう。
藤原や源・橘あたりを付ければいいのに、と思ってしまいます。
求婚者は失敗して嘲られる役どころだから、同時代の権門を避けたと説明されることもあります。
でも、それでは皇子を入れる理由が解りません。皇子を入れなければ切りよく3人なのに。
☾ 2人の皇子と同じ名前は、記録には見えません。
かぐや姫に求婚した5人の貴公子の名前は、出典が指摘されていました。
江戸時代末期の国学者・加納諸平によると、持統朝の官僚から採られているそうです。
日本書紀の持統十年十月条;
丹比(たじひ)・藤原不比等・阿倍御主人(みうし)・大伴御行・石上麻呂の記事があります。
加納説には賛成です。
☾ 石作皇子に相当する丹比は、氏のみが記されていて、名は嶋といいます。
宣化天皇曾孫の多治比王の子で、皇子に近いといえます。
嶋の子は奈良の都造りの責任者で、土作(はにつくり)と名乗った孫もいました。
☾ 藤原不比等は、ご存知、大化改新の功労者藤原鎌足の子です。
皇子ではありませんが、天智天皇の落胤という噂がありました。
光明皇后の父で、聖武天皇や称徳天皇たちの外祖父。天皇家と血縁関係を持ちます。
また、母が車持氏の出です。クルマモチとクラモチで、音が似ています。
「庫持」と表記すれば、字形も似ます。
☾ 残る3人の名前が似ているのは、一目瞭然です。
偶然で片づけるには、符合する点が多すぎます。5人の貴公子の名前はここから採ったのでしょう。
そして考えてみると、この時代に本名*を積極的に出すのは、
公文書、日記などの記録類や、史書に特有といえます
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ただの物語ではなく、史書らしきものが絡むと示しているのではないでしょうか☪
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