団塊世代の寝言

団塊世代の寝言

退職したお父んのつぶやき・・・

Amebaでブログを始めよう!

 

生前、仲良くしていただいたブログ読者の皆様へ

 

 

父、たかたん菩薩は、7月2日 11時48分に永眠しました。

ばたばたしているうちに、お伝えするのが遅くなってしまいました。

 

 

6月21日に自宅で痙攣を起こして救急搬送されました。

脳梗塞との診断でしたが、すでに脳の半分にダメージがあり、

脳ヘルニアもおこしていて、助からないということでした。

 

 

突然のことで家族は動揺していましたが、余命数日という宣告から数日過ぎると、みんな覚悟もでき、父の横で遺影の写真はどれがいいとか、お寺さんに葬儀の確認をしたり、、、

 

孫たちの発表会や運動会も立て込んでおり、この日に逝ったらいかんよ~とか、明日は友引だから困るよ~とか、、、

 

 

、、、笑

 

 

最後は、病室内で騒がしくしていた子供たち(孫たち)を𠮟りつける妹(次女)の怒鳴り声が響く中、気付いたら息を引き取っていました。

騒がしい中、薄笑いを浮かべているように見えました。

 

 

7月2日 11時48分。

父が大好きな笑点メンバーの桂歌丸さんと、ほぼ同じ時刻。

歌丸さんは11時43分。

追いかけるように逝きました。

 

 

先日、四十九日と納骨も済ませ、少しずつ落ち着いてきました。

 

 

これまでブログで仲良くしていただき、本当にありがとうございました。

 

 

たかたん菩薩 長女 ゆなぽこママ 

 

 

 

 

 

 

<ことばの散歩道 ⑰>

 

  

   ねこへび 責任と無責任

 

 

 「責任」 という語を 『広辞苑』 で引くと次のように出ています。

 

 「①[荘子]人が引き受けてなすべき任務。②政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。」(第七版、岩波書店)

 いかにも 『広辞苑』 らしい教条的語釈ですが、「責任感」 は、同書に、「責任を重んじ、それを果たそうとする気持ち。」 とあります。

 

 分かり易く謂えば、「自分の言動がもたらす対外的な影響は、自分が全面的に受ける。それが、善いものであろうと悪いものであろうと」 ということでしょう。

 また、「無責任」 とは、これとは反対語で、「自分の言動がもたらす対外的な影響は、善いところは受けるが、悪いところは無視、知らないふり、受け取らない」 ということでしょう。

 

 さて、私たちは、子共の頃から、この責任と責任感については、教育されてきたはずです。 しかし、昨今のいろいろな不祥事をみると、どうもではなく、明らかに大人たちは、責任をとろうとしていないようです。  むしろ、いかに 「無責任」 を合理化、正当化しようかとやっきになっているかのようです。

 

 自らの責を認め、真摯に告白した青年には、多くの共感と賛辞、同情さえ寄せたのに、一方の当事者のあの醜態振り。 政界に於ける、果てしもない疑獄事件・・・「責任」 や 「責任感」 ということばが空しくなるようなことばかりです。

 

 かって、植木等の無責任男、なんていうコメディがヒットしましたが、実に溌剌と社会風刺に満ちたユーモアがありました。 今ではあのような感覚さえ喪失してしまったような沈滞した時代のような気がしてなりません。 

 誰が、こんな世の中にしてしまったのでしょう。 もっと自分のこととして、きちんと考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 こんなことでは、チコちゃんに、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」 と叱られますよ。

 

                   宝石ブルー

 

いかにも梅雨らしい雨、こんな曲を。

 

 プロコフィエフ

   交響曲 第1番 二長調 『古典的』

     ユージン・オーマンディ指揮

     フィラデルフィア管弦楽団

 

プロコフィエフ最初のシンフォニーとして現代音楽の金字塔となるべく期待して、衆人固唾を呑んだが、意外とあっさりした小規模な曲でがっかりさせたエピソードがある。その曲想から、『古典的』 とニックネームがつけられた。 プロコフィエフの古典音楽への敬意なのか、旧ソ連の政治体制の恐怖から批判を穏便にかわそうとしたか・・・。 しっかり聴くと、けっして古典派の亜流ではないことにすぐ気がつく。 計算された音楽創りがなされ、こじんまりと構成されているのは流石プロコフィエフ。 オーマンディのしっかりした造形美が映える。

 

 

 

 

                ペタしてね

 

 

 

 

 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども

   夕かたまけて恋は術なし

 

                     作者未詳

                        『万葉集』

                         (巻十一 正術心緒)

 

 

  ――いつといって恋い焦がれない時はないけれど、

     夕方近くともねれば、

     人恋しい切なさは一入(ひとしお)やるせなくて・・・

 

     「かたまけて」…その時間・季節になると。

     「術(すべ)なし」…どうすることも出来ない。

 

 

 夕方になると、一人でいるのがめっぽう寂しくなる、と言っているだけの単純な歌だが、その素朴な感情と滑らかな調べが、現代人にも共感を呼んでいる。

 

 この時代、夕刻は、男が女の家を訪れる時刻。 今か今かと恋人の来るのを待っている女性の思いを綴った歌は古来数多(あまた)詠まれてきた。 それはまた、現代にも充分過ぎる程通用するものである。 

 

 今のように、二人で示し合わせて何処かで待ち合わせ、などとはとんでもないことだった時代、恋人(男)に逢えるかどうかは男次第、女は只ひたすら待つほかなかった。 

 こういう事情は、庶民よりむしろ貴族など高貴な身分になればなるほど厳しい定めであった。 「恋は術なし」 に率直にそのあたりの気持が顕われている。 

 

 そして現代人も、社会制度的事情は比較にならぬほど自由にはなったが、待ち合わせの相手を待つ想いは、この歌と共通であろう。

 しかい、若い時、こういう経験のなかった方は、それこそ 「術なし」 であるかもしれない。

 

                   宝石緑

 

来ぬ人を待つ侘びしさを慰める、こんな曲を。

 

 モーツァルト

   ディヴェルティメント 

     二長調 K.136、変ロ長調 K.137, ヘ長調 K.138

        シャーンドル・ヴェーグ指揮

        ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ

 

少年モーツァルトの軽快な3曲の喜遊曲。 弦楽器だけで演奏される。

CMのバックなどに用いられたりすることも多い。 モーツァルトの生まれ故郷ザルツブルクの室内オケによる庶民的演奏。

 

 

 

 

                ペタしてね