~諦めない夢は終わらない~その壱 | BROMPTON Pottering Tours

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今日を境に僕は新しい年代に足を踏み入れた。

思い返せば、良いこともたくさんあったけれど辛いことも多い二十代だった。


高校卒業後、僕は「日本の大学にだけはいきたくない」と親に無理を言ってアメリカの大学に留学させてもらった。

映画が好きだったので、漠然と何か映画関係の勉強がしたいと思い、シアターアーツを専攻科目にして演劇史・メイクから裏方の仕事まで、そして演技を学んだ日々。その中でも一番面白いと思ったのが演技のクラスだった。アメリカで演技をやろうなんていう学生は、それぞれが個性的で表現力が豊かで、もちろん英語は当たり前だけれど普通以上に話せるコミュニケーションに長けた連中ばかりだった。

そんな連中が40人くらいいるクラスで、日常会話がやっとの僕は授業についていくのが精一杯で、学期末の試験でモノローグの課題が出されたときも台詞を覚えるのがやっとの状態だった。順番に学生たちが円形の劇場の真ん中で所狭しと一人芝居を、ほとばしるエネルギーで繰り広げてゆく。僕は引き込まれるようにクラスメイトたちの演技に引き込まれてゆく。「何て生き生きと楽しそうに表現をするんだろう…」恐らく僕は、初めて見るサーカスにぽかんと口を開けたままになってしまっている子供のような顔をしていただろうと思う。やがて僕の番が訪れる。演じたのは、確か独房に閉じ込められた囚人の一人芝居だったと思う。先生とクラスメイトたちの視線が僕に注がれる。緊張しているかどうかも分からないまま、僕は頭に記憶した台詞を一気に吐き出した。そして終わったあと、先生が真剣な目で「タカシ、あなたの言葉を聞かせて。そう、私たちに分からなくても構わないから、日本語でやってみて」と言った。とりあえず台詞を吐き出して頭が空っぽなっていた僕は、いきなりそう言われて「え、日本語でですか?」と聞き返してしまった。先生は何も言わずに頷く。混乱している頭の中を整理して、台詞の流れを即席で日本語に直して、やけくその勢いで二回目をやった。すると演技が終わったあと先生を初めクラスの皆が拍手をしてくれて、先生は「そうよ、私はそれが見たかったのよ。一回目の演技は言葉では理解できたけど、あなたじゃなかった。二回目のは言葉は分からなかったけれど、本当のあなたを見せて貰ったわ」と満面の笑みで言ってくれた。

彼女の言葉を僕は今も忘れない。

ちょうど十年前の夏、「演劇って世界を越えられるんだ」という感動を胸に僕は俳優になるという夢を抱いて留学先のアメリカから帰国した。


日本に帰って間もなく、NYのテロが起こる。それに連鎖して各地で戦争が勃発するも、僕は大阪で演技の勉強を始めて、希望を胸に二十代を迎えた。やがて、やっぱり俳優でやっていくには東京の芸能事務所に入らなければと思い、上京するためにアルバイトをしてお金を貯める一方で、何十通もプロフィールを送りながら、吉報を待ち続けた。郵便配達のバイクの音が聞こえるとポストに返信はきていないかと飛んでいっては、がっかりと肩を落す日々。二次試験の案内はいくつかあり上京して面接までいっても、待ちに待った返信は「今回はご縁がなかったということで…」という紙切れが入っているだけだった。プロフィールを送れる事務所には一通り出してみたものの結局、良い知らせは来なかった。

上京しなければ夢が終わってしまうと思った僕は、駄目元でモデル事務所にもプロフィールを送ってみることにした。ファッションになんて全く興味がなかったし、今見たら冷や汗が出てしまうような写真を貼り付けながらも、東京への憧れだけで無謀な挑戦は続く。

九月のまだ暑さの残るある日、いつものようにバイクの音に反応してポストに向かう。手紙やダイレクトメールに挟まれた白い封筒が目に入る。それを持った瞬間、いつもと違う感触がそこにはあった。明らかに入っている内容物が多い。家に持って帰ることもせず、その場で封筒を破り中身を取り出すと「合格」と書かれた書類が…ようやく夢への扉が開かれた瞬間だった。


憧れの東京…親戚も知り合いもいない土地で、僕は俳優になることだけを考えて新たな生活を始めた。貯金も数か月分は用意してきたのだが、直ぐにアルバイトを探さなくてはならない。同じ事務所の人がホテルのバイトだったら時給が高いし、美味しい飯も食べれると教えてくれたので、新宿の某ホテルで働くことにした。一応の生活基盤ができたまでは良かったが、事務所からは仕事どころかオーディションの話もこない。当たり前だが、東京で見かける同年代の奴らはダサい僕なんかよりよっぽど洗練されていて、彼らを相手にしてモデルの仕事があるはずがない。でも当時の僕はどうして良いのかも分からず、とりあえず一番にやりたい演劇を学ぼうと考えた。そんなとき偶然アルバイトで一緒になった、今でも兄貴のように思っている俳優の先輩がいくつか良いところを教えてくれた。その一つが2011年の運命的な再会に繋がる今のマイコーチが教えていたスクールであった。それからもう一つ紹介して貰ったのは僕の演劇、いや人生の師匠とも呼べる方のやっているワークショップだった。二つのところで演技を学んで、芝居の奥深さに引き込まれてゆく。数ヶ月が過ぎ、師匠にファッションコーディネートを手伝ってもらったお陰か、モデルの仕事もちらほら入ってくるようになる。

一年が過ぎ、二年が過ぎ…その間は舞台に出たり、オーディションや撮影現場にも慣れてきてそれなりに充実していたものの、俳優として納得のゆく仕事ができていないことに少しずつ焦りを感じるようになってきた。そしてまた一年が過ぎ、僕は二十代の半ばに差しかかろうとしていた。「このままの環境で満足をしてしまったら、俳優として飛躍するチャンスはなくなってしまうかも知れない。もう一度、俳優の事務所に入れるよう行動をおこさねば…」

大阪にいたころとは違い、それなりの経験も積んできたし、情報もある。親しくなったカメラマンに撮ってもらった写真を自分で編集してプロフィールを作った。上京前のアルバイトの履歴書に出すようなプロフィールとはわけが違う。更に、目立つ封筒に書類を入れて、当時できるだけのことはしたつもりだった。有名な俳優が所属している数社から声が掛かって、弾む気持ちで面接に進むも、結局どこからも最終的な色好い答えはなかった。そのうち一社は、なかなか好感触で返信用の切手を貼った封筒を渡しておいたものの、返答すらないまま終わってしまった。変に自信があって、期待をしてしまった分、落ち込みも激しいもので、暫く演技から距離を置くことにして暗澹たる毎日が続いた。


~続く~