「郵便はもういらないのでは?」というエントリーには多数のコメントを頂いた。
予想通り手書きの手紙を受け取ったら嬉しい、あるいは書く楽しみがある、配達員を通したコミュニケーションがある等など、まあ予想通りの意見も貰った。このエントリーを書くにあたってそのような意見を想定しなかったわけではないのだが、そういう意見も考えた上での提言なのである。

私はデジタルネイディブ世代ではないが、中学校の頃からパソコンを使っていて文章もエディタで書くことが多かった。学校ではもちろん使えないのだけど、レポート形式のものなどは時折エディタで書いたものをプリントアウトして提出することもあり、小学校の頃は書道教室に通い字もそこそこ綺麗で書き方コンテストみたいなので入選したりもしていたが、今は勿論字は汚い。その辺はひろゆきとの共著「なんかヘンだよね・・」の最後のほうを見てもらうと手書きのひろゆきに向けたメッセージがあるので読んでみてくれ。まあ汚い字だ。でも別に構わない。漢字なんてカードの署名か著書のサインのときくらいしか書かない。

現代人はパソコンや携帯電話メールの普及でペンや鉛筆で文字を書くことは激減したのだが、気軽に文章を書けるようになったので文章の構成力や読解力は相当に上がっていると思われる。字を書くことそのものに意味があるわけではなく、あくまでもコミュニケーションの手段である。その本来の役割の部分で進化を遂げているとも言える。

正直、私は手紙を書くことそのものにノスタルジーもないし、特別視することもない。だから受け取ったとしてもメールのそれと特に気持ちは変わらないし、手書きだろうがタイピングだろうが、その人が文章を考えて思いを伝えようというプロセスを感じられれば、それを気持ちとして受け止めるだけだ。手書きの手紙でも例えば証券会社の古臭い営業が筆ペンで通り一遍の定型文を送ってきても封すら開けたくないが、たった一行のメールでも思いがこもっているメールを受け取ったら感動する。

拘置所にいるときに頂いた数千通の手紙は今でも大切に保管してあるが、時間がかかりすぎて全部は読めなかったです。まだメールやブログのコメントのほうが全部読めてよかった気もします。

郵便事業会社においては配達証明や書留は赤字だそうだ。送金は銀行経由でもいいはずだし、ネットバンキングもある。配達証明はそれこそ社会保障番号などを利用した全国レベルの個人認証システムを構築すれば必要なくなるだろう。DMなど無くなってしまっても何の問題もない。宅配便はヤマト・佐川で十分だろう。そうすると、手紙・はがきとなるが、私は上記の理由でそれもあまり必要ないのではないかと考えている。それでもどうしても気持ちは手書きでないと伝わらないというのであれば、料金を大幅に値上げしてシステムを維持すればいいと思う。

それを寂しいですね。とか温かみがないとか言っている人たち!
電子メールでもその行間を読み、書いた人の気持ちを感じることはできるんだよ。と再度言いたい。

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