大津市の中学校で昨年あった、いじめ自殺事件への様々な報道がなされている。

 亡くなったA君の、苦しみと、悔しさと、苦しみからどうやって逃れようかと必死に日々を送っていた辛い思いに、心をよせたい。A君、君が亡くなったことが残念でならない。助けてあげる道はきっとあったと思う。


 君は、一人の人間として、誰からもその存在を無視されたり、暴力を受けたり、不当な扱いをされることは、許されなかった。君は、自分らしく、今を生きる権利があった。それを奪われたことの悲しみ、哀しみ、痛み、傷み…。ご両親の悔しさはいかばかりかと思う。君の苦しみと抗議の声が伝わってくる…。


 ぼくは、警察が導入されるのではなく、学校の教師たちと生徒たち全員で、深い討議や語り合いを全力でしなければならないと思う。A君の亡くなったことに対し、人間として、同じ中学に通う仲間として、いまどのような生き方が問われているのかを、厳しく自己や仲間に問い、語り合わねばならないだろう。中学生には、他者を攻撃的に支配するような力も一方ではあるが、しかし、人間の希望につながるおおきな可能性や修復力、未来を切り開く力があるのだ。それを君たちの心の声にそい、強く、明かなものにしてほしい。

 教師は、この中学校の生徒たちに、人間としての決定的に重要な、尊厳をかけて、人間性をかけて生徒たちを励ましていかねばならないと思う。生徒たちのなかにはそうした教師の思いに強く共感し、正義を追及する仲間はたくさんいるだろう。そして、どの生徒もそれをもっていると信じ対応すべきだろう。

 

 一人の人間がいじめの行為によって亡くなったということは、暴力をふるったと言われる一部の人間への罰だけでは許されないことだと思う。A君を笑いものにしたり、辛い行動を強いた人間はきっと周りにいたのだとおもう。

 幾重にもいくえにもA君をとりまく様々ないじめの輪がうまれていたのではないだろうか。

 そして、もしかしたら『いじめ』の行為さえ教師たちが見つけられないくらい校内に様々な「荒れ」た状況が生まれていたのではないか。(このあたりの事情は、具体的には知りえないので、失礼な記述になっているかもしれない…)


 ぼくは、一人の教師として、いじめの問題とは何度か対応してきた。いじめを知ったとき、もうその瞬間から教師は、自己の持つ人間性をかけて全身全霊の取り組みをしなければならないと思う。


 何度かある『いじめ事件』の中で、教師生活の後半の頃にあった少女Aに対するいじめは教室全体の空気を、もうAはいじめられて当然、そんな感じでつくり出されていたことがある。

 Aのすることは確かに許されないことも多々あった。授業中の不当な言いがかりや、他者を苛立たせる行為もあった。

 しかし、ぼくは、教室集団の子どもたちの在り方を見たとき、いくらAにいくつかの原因があったとしても、この子どもたちのAに対する否定的行為は人間として許されないと思った。

 だから、担任して二日目から、すべての子どもたちがぼくに反抗したり反発したりしても、Aは守られねばならないという立場で子どもたちに対した。

 Aが傷ついているとき、ぼくが注意すると、子どもたちは最初くってかかってきた。

 「先生、Aを許すんですか。授業でかってなことをするのを許すんですか」

 しかし、ぼくはきっぱりと言った。

 「Aのしていることで、まちがっていたことは許されない。それは、きちんと注意しよう。しかし、だからと言っていま君たちがしている行為は人間として許される行為だとは思わない。先生は君たちにそういう行為をしてほしくないし、君たちならできるはずだ」

 勿論、それだけでは心をつかむことはできない。Aに対する違和感や「いじめ」を許容するような雰囲気を持つ、子どもたちを、きちんと批判しつつ、彼らもまた、ぼくがA子を守り愛したように、教師の僕から彼らもまた徹底的に愛されねばならないと思い、いうべきことは言ったが彼らを愛おしんだ。

 A子を守る闘いは続いた。同時に教室での楽しい取り組みや授業もまた…。1学期を終えるころ、子どもたちの中にA子を仲間として受け入れ、共に生きる友としてやわらなかな対応が生まれてきた。

 男子のA子を最も嫌っていた幾人かが、卒業時の取り組みにおいて、A子がひとりぼっちでいたとき、「仲間に入れよ」と声をかけていた。保護者会でそのことの喜びを語ると、うれしくて思わず涙ぐんでしまったけれど…、当事者の二人の男子の保護者が、息子の成長を思い涙を流して喜んでくれた。


 昨年の取り組みにおいて、A君の訴えがあったときや、誰か一人の教師が「何かへんだな。おかしい。子どもたちの動き」と思ったとき、もうその時点で教師の全身全霊をかけた取り組みが生まれる必要であったとおもう。

 見て見ぬふりをしてよいことと、そうであってはならないことは、教師であればほぼ気づいているとぼくには思える。