小学校の時に文集に書いた将来なりたいもの。
1年だったか2年だったか忘れたけど、卒業に近い方じゃない低学年のときの強烈な夢でした。

セキセイインコが好きで、家で飼っていて、手乗りのとてもかわいいキレイな子で・・・あれ、でも、それって多分ことりやさんになりたい、って書いた後にお願いしてやっとお迎えすることができた鳥ちゃんだったような気もする。あまりよくおぼえてないなあ。

田舎の商店街から一つ路地入った所にあった、花屋と一緒になってた小鳥屋さんがあって、よくそこへ通っていたような記憶がある。

今冷静に考えると、小学校1年とか2年のころに、一人でそんなに通えるはずはなかったのだけれど、いつ行ってたんだろう? もうちょっと大きくなってからは、習い事に一人で行く途中や帰りに毎週鳥見たさに立ち寄ってた気がするんだけど、何かそれ以前のはっきりした記憶はないな。
行けなかったから、余計に憧れたのかもしれない。

まだ子供だったからなのか、せいぜい6畳程度のスペースしかないような小さい店で、鳥かごがいっぱい積まれていて、そんなところに買うあてもないのにただ、鳥見に入り浸ってた。
今だったらさ、せっかく見せてもらってるから鳥エサのひとつも買わないと、とか、よくわかんない罪悪感みたいのがあるだろうけど、当時はそんなのお構いなしだった。

それから30年、どういうわけか、自分でネットショップはじめて、鳥のモチーフのグッズを売ったり、実際に生鳥専門店でアルバイトしたり、って形で「ことりやさん」になる夢は一応叶ったような気がするんだけど、夢叶ったかどうか、ってのは、今はどうでもよくて、あれはなんだったんだろう、何でことりやさんになりたくて、何がそんなに魅力的だったんだろう。

よくわからないけれど、その頃、とにかく小鳥が大好きだった。理由とか知識とかはどうでもよい、とにかく、鳥が好きだったんだ。
私が知ってるそのことりやさんは、一部屋しかない鳥売場スペースにぎっちりと鳥かごならべてあって鳥しかいなかった。店の人も、向かい側の花屋にいたんだと思うよ。もしかしたらスタッフ部屋とかがついてたのかもしれないけど、私には見えてなかったな~。
そこにいくと、好きなものしかいなかった。
そんな空間が大好きだった、のだと思う。

今はそこの店なくなっちゃったから、もういろんなことも確かめようがないのだけれど、ただ、そこに行くとき、いるときのワクワク感だけはわりとリアルに思い返せる気がする。


つまり、別に鳥じゃなくたってよかったし、今となっては鳥じゃなくてもいいのかも、ということに気付いてしまったよ。あの感覚、それが忘れられなくて、多分今も、あのときのあんなような気持ちになれるものを、探しているのかもしれない。
それが何なのかがはっきりわかってないから、そう感じられそうなきがするものに片っ端から手をつけてみて、そうだったりそうじゃなかったり、って繰り返しているのかもだけど、そこに、いつからか「結果をださなきゃ」「形にしなきゃ」というのが入り込んできてしまったから、余計に気付けなくなってしまったのかな。

ただ、純粋にそこにいて心地よいだけでよかったんだよね。




こいつは今ウチにいるマメルリハという鳥。

この子は快か不快かでしか行動しない。
気に入らないと容赦なく噛み付くし、好きなものでもとりあえず噛みつくのだw
それでも愛されているね。