新撰組、近藤勇の史跡を巡る① | オレはこう思う

新撰組、近藤勇の史跡を巡る①






龍源寺の近藤勇像

近藤勇(1834~1868.4.25)
幕末の幕臣で新撰組隊長

だいぶ前、テレビの時代劇で近藤勇役をビートたけしが演じてるのを見て、たけしさんには失礼だが役があってないような
(^o^;)と思ったりもしたことがあったが、それはともかく近藤勇に縁のある場所を廻ってきたのでまとめてみた。

武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市野水)の農家、宮川久次郎の三男として生まれた(幼名勝五郎)。嘉永元年、天然理心流宗家三代目の近藤周助に剣の素質を見込まれ入門、翌2年に養子となり文久元年宗家四代目を襲名し道場を継いだ。

調布飛行場からわりと近い場所
野川公園入口につながる通り沿い



近藤勇生家跡

産湯の井戸
昭和18年に家が取り壊されるまで使われていた井戸のみが残る。

生家跡のすぐ脇に近藤神社がある。



「昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤家の生家跡に建立された」とある。

生家跡と近藤神社のある通りの向かい側に渡ると



天然理心流道場
「撥雲館」



道場の説明板
昭和50年代まで稽古が行われていたという。

天然理心流とは「誠を以て天地の公道を極めよ」近藤内蔵之助を創始者とする武術である。
八王子周辺で主君をなくした武士1000人を集めた八王子千人同心で武術が盛んになると、内蔵之助はここから多くの門人を獲得していった。天然理心流は二代目宗家、近藤三助のあと増田蔵六が実質的な三代目の位置を占めていたが宗家は継がず、宗家の三代目には近藤周助がつき、その後を継いで宗家四代目となったのが近藤勇である。

武術には天然理心流の他、北辰一刀流、鏡新明智流、一刀流、神道無念流、直心陰流、大石神影流、示現流、心形刀流、柳剛流、などある。


万延元年(1860)、尊皇攘夷の水戸浪士によって桜田門外の変が起きたことを庄内の尊皇攘夷論者清河八郎が知ると、尊皇攘夷を目指して有志となる浪士を集め、その結果、文久3年全国から236人の浪士を集めた。
浪士組として将軍徳川家茂上洛に際しての警護のため京都へ生き、攘夷の実行、公武合体、天皇への忠誠のため京都へ向かった。近藤勇も誘いを受けて試衛館(新宿区に試衛館跡がある)の同士と共に京都へ、土方歳三も向かった。

近藤勇も桜田門外の変を知り、国を憂い、幕府の再生と強い国を持とうと願っていた。
浪士組は京都で天皇への忠誠を誓ったが、生麦事件が起き、イギリス軍艦に対抗するため朝廷の命によって清河八郎らは江戸に戻ったが、公武合体や天皇、将軍の警護が大事だと近藤勇らは京都に残る。
近藤勇らは京都守護職の会津藩預りとなり天皇、将軍の警護や京都市中の見回りにあたった。
文久3年、薩摩と会津による八月十八日の政変で長州を京都から追い払ったが、会津藩と共にこれに参加した壬生浪士は新撰組となった。
新撰組は一橋家(一橋慶喜)、会津(松平容保)、桑名藩(松平定敬)の一会桑に信頼された。
一方、近藤勇は筆頭局長だった芹沢鴨を粛清し、思想の相容れない者を粛清し、局長近藤勇、副長土方歳三の体制が出来上がった。
新撰組は戦死した数より粛清された数が多かったという話もある。

新選組に関しては
日野市立新選組のふるさと歴史館に行けば詳しい歴史がよく分かる。



新選組のふるさと歴史館

幕末の流れが分かりやすく説明されている。
天然理心流の剣術について、新選組の姿になっての写真撮影、その他数多くの展示。


東京の日野は土方歳三が生まれた石田村があり、六番隊隊長の井上源三郎は日野宿で生まれ育った。
天然理心流の近藤周助に師事した佐藤彦五郎が開いた佐藤道場では近藤勇、土方、沖田、井上などが剣術の稽古をした。佐藤は新撰組の重要な支援者であった。




日野宿本陣
東京都指定史跡
日野市指定有形文化財



説明板

都内では唯一残る本陣建築で、甲州道中では相模原市の小原宿本陣、山梨県大月市の下花咲本陣のみである。

日野市には他にも井上源三郎資料館、佐藤彦五郎新選組資料館、また少し離れた所には土方歳三資料館もある。ただ、この3館は第1、第3日曜の午後だけの開館のため注意。





公武合体派が主流となり、長州などの尊皇攘夷派は挽回することを試みていたが、土方歳三が古高俊太郎を拷問し、京都に火をつける計画があったことを自白させ、新撰組は池田屋に強襲して大功績をあげた。



池田屋があった所
京都にて

慶応3年には見廻り組頭取として浪士から幕臣となる。
新撰組は京坂を恐れさせる存在となり、この池田屋事件の頃が新撰組のピークだったが良くない流れになってくる。
伊東甲子太郎が近藤勇との意見の相違から新撰組を脱退し御陵衛士を結成した。藤堂平助や斎藤一もこれに呼応してしまったため、伊東を暗殺した。

京都には壬生寺、八木邸→芹沢鴨が暗殺されたという所、七条油小路辻→伊東甲子太郎が暗殺されたという所、旧前川邸といった近藤勇に縁のある場所があるが、今回はそこまでは行けないので、いずれ機会があれば見に行きたいところである。



初めとは逆転する。
坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋で薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐が失敗した。

1867.10.14大政奉還
1867.12.9王政復古の大号令

慶応3年、西郷隆盛の薩摩が幕府に対する挑発を続けた。幕府が堪り兼ねて庄内藩に命じ、新徴組(新撰組とは別の浪士組で京都から江戸に戻った側)が庄内藩の一員として薩摩藩邸を焼き討ちにした。1867.12.26
薩摩としては待ってましたである。
焼き討ちの直後、年が明けての正月三日、京都鳥羽口の薩摩軍が旧幕府軍を砲撃。
→戊辰戦争

ちょうど近藤勇は伊東甲子太郎を暗殺した恨みを買い狙撃され怪我をして休んでいて、代わりに土方が指揮を執ったが敵方の近代兵器にはひとたまりもなく退却し、創立八人組の井上源三郎を失ってしまった。
新撰組は富士丸、順動丸で江戸に帰り(東京南品川に釜屋跡がある)、近藤勇は大久保剛を名乗り、土方歳三は内藤隼人を名乗って1868.3甲陽鎮撫隊を組織した。



さて江戸城まで攻撃されるところまできたが、西郷南洲(隆盛)と勝海舟の会談によって、江戸城での戦闘は避けられた。

1868.4.11江戸無血開城



江戸開城
西郷南洲、勝海舟会見之地の碑

JR田町駅前、地下鉄三田駅近くのビル前にある。
近藤勇の記事は②へ続く。


参考資料
日野市新選組のふるさと歴史館のパンフレット、冊子