昨日久しぶりに教会に行ってきました。日曜日は主日礼拝と言います。コロナ感染予防でまだ全員一緒の礼拝はできずにグループ分けをしています。25人ほど来ていましたがお話や活動はまだ自粛しています。桜が満開でした。復活祭も近い。早くみんなで集まりたい。ウクライナの平和のためにお祈りして帰りました。
俳句のこと(年表3時代)
石和に引っ越した時はものごころついていて、いろいろ記憶が残っている。3歳から小学校2年の12月までいた。子猫のことのほかにいくつか強い思い出があるが俳句、飯田蛇笏のことはその一つである。
山梨は江戸時代から俳諧が盛んな所であり、松尾芭蕉の往訪記録も残っている。俳句がさらに盛んになったのは飯田蛇笏の出現である。蛇笏は「雲母」という同人誌を主宰していて山梨津々浦々で句会を開いていた。僕の石和の住まいは山梨中央銀行の石和支店の社宅で、その時の支店長は石和在住の人。父はまだ持ち家がなく、八代支店長から本店人事課長になり、石和の社宅を借りることになったわけである。その2階は6畳と10畳の和室が続きになっていた。そこで母はお茶とお花を教えていた。句会にもうってつけの場所であり、その地方の月例句会場として提供したのであろう、毎月大勢が集まっていた。僕はそこでみんなが俳句というものを見せ合って遊んでいるということを知って、女はお茶お花、男は俳句をするものだと思って育っていった。3,4歳のころはお花のお稽古や俳句の始まる前のみんなガヤガヤしているときには部屋に入っていった。女の人たちからは「坊や、坊や」と可愛がられた。俳句の方は大声でいろいろ言いながら、みんなが「だこつ、だこつが」と言っているのが不思議で、そのうち「ああ、あの人のことをだこつというのか」と、変な顔だから「だこつ」というのかと思うようになっていた。「だこつ」という響きが「悪い奴」というふうに聞こえた。
僕は母や姉と居ることが多く、人が訪ねてくると玄関まで母と一緒に出迎えることも多く、母、姉はそれを別にやめさせず、代わりに一人でも僕が出迎えることもよくあった。
ある俳句の例会の日、俳句の人たちはみんな2階に上がっていた。たまたま1階には僕しか居なかったのだろう。そこに「ごめんください。」と男の声がしたので僕が玄関に出た。あの独特の顔が現れたのである。僕は大声で、
「だこつが来たよう~!」と叫んだのである。蛇笏は黙って2階に上がっていった。
このこと自体は覚えている。そして次のことは長兄(俳号は芳湖)から聞いたのだが、そのすぐ後なのか何年か経ってからなのかよくわからない。ただ兄は何度もこの話をしていたのである。
兄が言うのには、「いやあ、参ったなあ。あのお前の声は2階まで聞こえていたよ。みんなびっくりしていたら蛇笏が上がってきて、『子供は正直だなあ、私がいないときはみんな私を呼び捨てにしているんだ。』とギョロっとみんなを見回したよ。」
そんなこともあったが父や兄は私を吟行にも連れて行ってくれたことがある。蛇笏は私にも話かけてくれた。「坊やも俳句を作るかい? 葡萄はおいしいなあ、とかね」と。よく覚えている。葡萄園への吟行だと思う。僕は4歳くらいだと思うが兄や父から俳句は五七五だと教えてもらっていたので、「白い雲葡萄の棚のもっと上」と言い返した。蛇笏は不愛想に何も言わずに他へ行ってしまった。無視された悔しさか、そのあとも小学校時代ずっと俳句をやったのでこのことは忘れない。蛇笏は四歳の子にしてはうまかったのでびっくりしたのではないだろうか。
甲府へ移ってからも長兄は熱心に俳句に取り組み、我が家で友達と句会をしていた。父は「柳紅」という俳号で雲母同人になったが仕事が忙しかったのだろう、甲府では句会に出かけたことは無い。僕は一人で時々作句していた。下手な字でノートに書き綴ったものが残っている。小学校で作詞クラブに入り、四年生くらいまで続けていたがやめてしまった。父が同人誌だけは読み続けていたので中学の時「雲母」の蛇笏選に3、4回投句した。2句取られたときはうれしかったが続ける励みにはならなかった。その後40年経ってロンドン勤務でまた俳句に目覚めることとなる。そのことはまた。
・ノートに残っている俳句から(小学3年生のころ)
工場の煙のしみる秋の空
遠足や秋の日差しを帯名山
俳句や短歌はいずれ玲奈からもらった句集・歌集用の帳面に時代順に書き残しておきたいと思っています。
アメブロ創業時、サイバーエージェントの藤田さんの会社に関係していたので
すぐにブログを開設しました。でも根が面倒がりやなので少しづつ更新しなくなりました。
その間、なんと世の中は俳句ブームになりました。僕が始めた頃ネットで俳句を検索しても
出てくるのは歳時記のほかは特別な記事も出てきませんでした。夏木先生の影響もあったでしょうが
今や俳句は身近のものとなりました。俳句の伝道師としてブログを立てた小生として嬉しい限り。
そこでこの私のアメブロも趣旨を少し変えて、俳句以外のことも載せていこうと、再出発というか心を入れ替えて更新していくこととしました。最近我が子たちのために私自身がどんな人生を歩んできたのか記録を残すこととしてエッセイを書いています。その中で皆様に公開してもいいと思う面白いものだけここに載せようと思います。勝手ながらお読みいただければ幸甚です。
先日「猫の日」に書いたものをまずどうぞ。
私の履歴書 3
飼い猫との思い出(年表3時代~1950年(昭和25年)頃)
石和の社宅が広かったので犬や猫、ヤギ、ウサギなどを飼っていた。小さい亀もいた。猫については強烈な思い出がある。姉が猫嫌いだったのでなかなか飼ってもらえなかったが、僕は祖母と猫がいる祖母の友達の家に小さい時から遊びに連れて行ってもらううちに猫が大好きになっていた。強くせがむので母がとうとうOKしたのだろう、お茶かお花のお弟子さんを通して生まれたばかりの子猫をもらったのだ。三毛猫だ。祖母と僕が「みけちゃん」と呼んでかわいがった。しつけもしっかりして、庭から家の中に上がるときは雑巾で足を拭くし、おしっこもうんちも決まった箱の中以外では決してしない。サチ(犬)とも仲良くしている。でも猫嫌いな姉にとっては邪魔でしょうがないのだ。姉は縁側の天井から葡萄かご(お土産に葡萄を入れる籤(ひご)で編んだ籠)を吊るして、「もう、ここに入っていなさい!」と言ってミケが走り回って姉の用事(よくミシンを踏んでいた)を邪魔するときはそこに押し込んだ。僕は小学校に上がる前で一日中ミケと一緒だったがよくミケがいなくなる時があった。翌日になっても帰ってこない日があって、悲しんでいると、祖母が「こうすればきっと帰ってくるよ。昔からそういわれているんだよ。」と言ってミケの食事用の茶碗の裏にお灸をした。不思議なことにそのたびにミケは帰ってきた。小学校に入ってからもミケは僕と祖母とのマスコットだった。
小学校1年の時、僕は汽車通学をしていて、ある日、帰校の途中甲府駅に向かって歩いていた。駅近くのガスタンクの横に通りかかったとき、ミケによく似た子猫が現れた。「あ、かわいいなあ。でも家にはミケがいるし、これ以上猫は飼えない。」と一度抱き上げたがそこに置いて立ち去った。でもその猫はついてくる。「だめだよ、さよなら。」と言ってもついてくるので走って逃げた。駅まで走って逃げて振り返ったらもう見えなくなっていた。それにしてもミケによく似ているなあ、と思いつつ家に帰った。
家に帰ってミケを抱き上げようとしたがミケがいない。あれから70年が経っていて、これまでも若いころから何度もこのことを思い出すが、ミケを探しているその時、ガスタンクの猫がミケだということを想像だにしなかった。実はガスタンクの子猫はミケだったのである。似てはいるが、石和と甲府だ。思いもよらなかったのである。ガスタンクの子猫のことはみんなに話したが何の反応もなかった。ミケはまたどこかに行ってしまったのだろうと思っていた。ミケの茶碗の裏にお灸をしたが今度は戻らなかった。さみしかった。
それから1年か2年して僕がミケのことを忘れたころ、母が言った。今思えば母はそれを言うべきではなかったのでは、と思うが。
「峻行さん、ほんとはね、ミケがいなくなったのはね、あんまり洋子さんが嫌がるから捨ててもらったのさ。何度も戻ってくるから志村さんにね、今度は遠くに捨てておくれって言ったさ。ミケ今度は帰らなかったから、どこへ捨てたでえ? って聞いたら甲府のガスタンクのところだと。だからあの猫はミケだったんだよ。そんなに似てたんだから。」
志村さんというのはお花屋さんでお稽古用の切り花を家に入れてくれていて、そのほか我が家の雑事をいろいろ不器用な父の代わりにやってくれていた、とてもハンサムなおじさん。僕ともよく遊んでくれた。ミケがよくいなくなったのは母が志村さんに捨てに行かせていたのだとその時わかったのである。いくら似ているからといって小学1年生には、石和の猫と甲府の猫が同じ猫、ましてや母、姉が僕がかわいがっている猫を捨てるなどということをする人だとは思いもよらなかっただろう。
僕は幼少期は動物好きだったのです。
明けましておめでとうございます。
昨年はほとんど更新しませんでした。
アメブロ創設時代からの会員ですが最近はアップの仕方が複雑になってきたようでして・・・
今年もどうなるかわかりませんができるだけ皆さんのブログを拝見したり、近況をアップしたいと思います。
今年の目標:脊柱管狭窄症の症状を和らげる努力をすること!
よろしくお願いいたします。
皆様の益々のご健勝、お幸せをお祈りします。
おはようございます。
久しぶりに自分のブログに来ました。
更新サボっていると書き方難しくて・・・
友人がやっているサイトに寄稿しました。
↓
アメブロにも復活したいと思います。よろしくお願いします。
コロナ禍は運動不足文字ずり草
このブログを始めてからなんと14年が経った。
年を取るにしたがって1年の速さの実感を更新することは
もう皆さんもご承知のとおり。
20代は時速20キロの実感、60代は時速60キロの速さの感じとよく言われる。
それがもう時速70キロですから、まあ早いこと早いこと。
残すより捨つる句多し年暮るる なんて詠んだころは俳句にもっと接していたし、
年用意ひとつふたつと省きをり なんて新年の準備もいろいろとしていた、
それなのにこのごろはまあ、コロナ禍のせいもあるが俳句はサボるし、新年の用意なんて
年賀状も出すことやめたし、おせちも妻にもう作らなくていいと言うし、冬の季語に接することも少なくなった。
そんな中で、エッセイのリレー執筆を依頼されて、生活のアクセントとなった。↓是非お読みください。
コロナ禍も無事孫生まる天高し 春行士
前にも書いたと思いますが昔から孫の俳句は良いものが無いと言われています。
爺バカがまともに出てしまって共感を得るよりは反感を買ってしまうのでしょうか。
前回アップした孫娘生まれた歌を少し修正しました。爺バカです。
最近のアメブロのやり方少しづつわかってきました。
身に入むやみどりごの声ライン越し 春行士