大洋丸の個人日記
大伴家持の能登入り第一首目「志雄路から」の石川県志雄町杉野屋は大洋丸の父
が生まれ育った土地ですが、大洋丸は志賀町の母の家で生まれ育ったので、この
志雄というところを知りません。今度ふとしたことで志雄町の電話帳を入手した
ので、詳しい住所地図もあるところから、父の家の地番の家に電話してみました。
現在70歳で昭和30年函館から現在の家に養子に来たという人が親切に応対し
てくれました。父の家の地番に確かにその人は志雄生まれの奥さんと二人で住ん
でいるのでした。大洋丸が父から聞いていた菩提寺のこと、山サという作り酒屋
だったことも、今は代替わりしたが近くにあることなどを、話してくれました。
父の30歳の時の子である大洋丸にとって、もう100年も昔の話になるわけで
すが、昨日のことのようにその人は話てくれました。しかし志雄もすっかり変わ
り誰も昔を知る人はいない。寺も空家で、住職は金沢住まい。法事には電話で呼
んで来てもらうのだそうです。


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「文献探索」編集日記

9月25日
田川さんの調査による梶井重雄先生記事掲載「宗教連盟」1~35号、「石川県歌人」1~29号の未調査だった分、コピーで届く。入力をはじめる。
「1頁要約書誌」に点検と不十分箇所の指摘メールを送信。
9月26日
国会図書館での梶井先生の歌掲載は平均6首宛て昭和58年より「運河」誌上毎月毎号連載
とても一人では調査・採録が不可能と考えられたので、『万葉植物抄』60植物解説分を
「運河」誌編集に当初からたずさわった菅原さんにお願いすることにした。調査用紙に書き込み方法なども記載して依頼状を送付。菅原さんは堀込さんに「運河」誌上にエッセイを書かせた人である。堀込さんは2回2頁宛執筆しそのうちのひとつが、「ラビス・ラスリ」である。梶井先生が「シリア展」を見られたときに、この青い宝石の歌がある。


「瑠璃深くかがやく石の沈黙をラピス・ラズリと呼びて尊ぶ」


「書誌ラピス・ラズリ」を堀込さんは『文献探索2003』に残してくれている。
妹の木本さんに、この石をめぐる姉堀込さんとの思い出を今度書いてもらった。
菅原さんは歌人として梶井先生とも交流があったことが、あとでわかっている。

9月27日
国会図書館で「運河」誌調査、3年分。
9月28日
田川さんへ調査礼状メール。「石川県歌人」の入力をする。
9月29日
国会図書館で引き続き「運河」誌調査、4年分。
9月30日
田川調査分、入力。すべて入力。
梶井記事掲載初出順一覧、五十音順一覧作成。

「文献探索」編集日記

手塚さんの日葡辞書に和田さんの頁が灰入りましたね。ではこの日葡辞書に関心がもたれたところから書いていって関係文献収集に進んでいった動機についてロレンソのことなども含めてテーマ説明と調査動機を見つめなおした序文5~6行を書いて最初においてくださいね。キリスト教初期宣教史上の一エピソードになったら大いに嬉しいですね。

梶井重雄『金蘭の花』の読書論を読む

梶井重雄『金蘭の花』から、読書論を読む(カッコ内は掲載頁数)


○人はすべて木でいえば梢をもっているものである。教え子の梢を切ってはならない。梢を発見して教育すべきである。「をしへ」の「をし」は「をしどり」の「をし」で愛の意味であり、教育の育は「そだつ」で「そだつ」は立つという意味である(023

○読書とは著者との対話で、一人静かに書物に対し、著者と向きあう。それが読書である。毎月少なくとも一冊の本を読む。それを一年二年と続けていく。これが自己教育であり、生涯教育である。石川県では現在二百五十ぐらいの読書会があって、月々一冊の本を読みあっている。県立図書館ではそれらのグループに対応して、同じ本一組十冊ずつ揃えた十冊文庫なるものを備えている。現在では二千セット、約二万冊を県立図書館の普及課から貸出して全県下で利用されている(126

梶井重雄先生のラビス・ラズリ

引き続き梶井重雄先生の『金蘭の花』を読む。()内は頁数。

○北原白秋は歌集『桐の花』で
ふくらなる羽毛襟巻(ボア)の匂ひを新しむ十一月の朝のあひびき
と詠んだ。明治四十三年、二十六歳の作で、当時白秋はある婦人とひそかな恋愛に陥り、ふっくらとしたボアの純白な羽毛が、恋人の美しい頬にふれていたのであろう。ボアだけでは当時の読者には分からない(100)
○私は「シリア文明展」を見て、言葉の国際性と短歌について思った。シルクロードの宝石といわれるラビス・ラズリを、その原石や装身具にみて感動した。青地に散る金色の輝きが晴天の星といわれ、瑠璃ともいう群青色の宝石である。またアンフォラと古代ギリシア人が呼んだ二つの把手のある壺である。短歌は美的感覚感動の表出である。これらのものと言葉との関係、言葉の国際性にどう立ち向かうかである。
シリア沖海底深き沈船に潮明り浴ぶアンフォラは
瑠璃深くかがやく石の沈黙をラビス・ラズリと呼びて尊ぶ(101)

大洋丸は第一次世界大戦の戦勝国日本への敗戦国ドイツからの賠償船

小山さんが、また尋ねる。

大洋丸 ってドイツ 船だそうですね。

答える。

第一次世界大戦

現在の中国 チンタオ(青島 )の独逸 経営市街を

日本が漁夫の利 を占めて攻略(参戦決定は大隈第2次内閣

戦勝国 となって独逸 帝国より全賠償額の0.75パーセントを取得

大洋丸 (カップ・フィニスター地の果て岬号:スペイン の岬名)ほか8隻。

ハンブルグ 港の当時世界第1級造船会社

ブルーム ・ウント・フォスが1911 明治 44年8月建造

南米 ブラジル の奥地に移民を送り込むための

ラプラタ河を遡れるよう平底・腰高に設計された貨客船

山下埠頭の氷川丸 より千トン大きい1万4千トン

横浜 回航は大正10年1月

淺野総一郎の東洋汽船大蔵省 より運航受託。

また、小山さんが言う。

大洋丸 の元の名は

Kap finstere (暗黒岬)。固有名詞 ですから意味はないですね。

大洋丸 遺族会 編集の『大洋丸 誌』昭和 60年12月発行p109にも

「KAP FINSTER」これは日本語で「暗黒岬」または「地獄岬」と

言う意の訳がある。このことは、大洋丸 の未来を暗示していたと

言えましょう」とある。

辞書で「finisterre」を探して行くと「finster」にたどりつき

「finisterre」に行き会わないせいですかね。

大正時代の日本の正式の船名録(早大 図書館 所蔵)にも

ブルーム ・ウント・フォス社史にも

「KAP FINISTERRE」とありました。

両方のコピーを持っていたのですが今探せません。

スペイン語 だとやはり「地の果て岬」のようですね。

terre は、欧州 大陸のことで

finis は、欧州 の田舎といわれるイベリア半島

大西洋 に突き出たところ、最西端の意でしょうか。

Cap finisterre なぜスペイン語 の地名を取ったのでしょうか。

ハンブルグ 出航後、祖国独逸 帝国の富国強兵 政策により

南米 ラプラタの河口に直行させられる独逸 移民たちの目には

欧州 大陸の陸影が望見されるのは、わずかにこの岬だから。

余談ですが、大洋丸 の上層甲板には20mプールがあり、せめて

赤道直下通過時の炎暑を移民達に避けさせるための設備だったとか。

昭和 7年、相良八重らと同船の前畑秀子水泳 選手たちも

このプールで練習したと当時に東京 日々新聞にあり。

cap Finisterre (1509)の戦いというのがありますね。

仏蘭西 vsスペイン ?これに関係があるのかも?

よく調べましたね。

これは知りませんでした。


梶井重雄『金蘭の花』要約抄録

『金蘭の花』(平成06年06月12日)

*この抄録集は、梶井重雄幸代両先生が私に

話してくださっていると思われるところを

抄録した。そのため原文を私に語っていた

だいているように、要約したところがある。

○人はすべて木でいえば梢をもっているものである。教え子の梢を切ってはならない。梢を発見して教育すべきである。「をしへ」の「をし」は「をしどり」の「をし」で愛の意味であり、教育の育は「そだつ」で「そだつ」は立つという意味である(金蘭023


○庭前に富士山と柴垣海岸からのなでしこが咲いた。越中守時代の大伴家持が愛して邸内になでしこを植えた。家持は単身赴任で奈良の妻にあこがれて詠った歌がある。

なでしこが花見るごとに乙女らが笑まひの匂い思ほゆるかも(金蘭042


○秋の一日、七尾は図書館まつり。読書会がひらかれた。夜は能登島に移って、読書会がひらかれた。私が館長時代に雑煮をふるまってくれたという青年たちが今は壮年、今日は私をもてなすという。海は波にくれてゆく。

舟形のうつはにみつる舟盛りは石鯛黒鯛の生きづくりなど(金蘭050


○ゲーテに高昇という思想がある。恋愛も、単純な自然の欲求の表明でなく、自分のなかで蒸溜され、いわば濃縮されて、高昇するものである。ゲーテはまた視覚を精神的感覚といい、観察から熟視へ、熟視は思考へ、思考は統合へと移行するという。短歌には気品が必要だが、気品は作者の精神性にある。斎藤茂吉に次の短歌がある。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり(金蘭071


○萩原朔太郎は『恋愛名歌集』において『万葉集』中の一首

うち日さす宮道を人は満ち行けど吾が思ふ君はただ一人のみ

をあげ、うち日さすは宮の枕詞であるが、枕詞は序詞の一種である。序詞には有心の序詞と無心の序詞がある。この歌のように、枕詞が内容の一部となり、想の景象や情象をかねているときは、有心の枕詞といい、無心の枕詞の例に次の歌があるという。

もののふの八十氏川の網代木にいさよう浪の行方知らずも

は、もののふは声調上の音律感を主とし、内容の想とは無関係の修辞であるから、これを無心の枕詞というべきである、といっている。

志雄町杉野屋

8月11日
大伴家持の能登入り第一首目「志雄路から」の石川県志雄町杉野屋は

大洋丸の父が生まれ育った土地ですが、大洋丸は志賀町の母の家で生

まれ育ったので、この志雄というところを知りません。今度たまたま

志雄町の電話帳を入手したので、詳しい住所地図もあるところから、

父の家の地番の家に電話してみました。
現在70歳で昭和30年函館から現在の家に養子に来たという人が親切

に応対してくれました。父の家の地番に確かにその人は志雄生まれの

奥さんと二人で住んでいるのでした。大洋丸が父から聞いていた菩提寺

のこと、山サという作り酒屋だったことも、今は代替わりしたが近くに

あることなどを、話してくれました。
父の30歳の時の子である大洋丸にとって、もう100年も昔の話にな

るわけですが、昨日のことのようにその人は話てくれました。しかし

志雄もすっかり変わり誰も昔を知る人はいない。寺も空家で、住職は

金沢住まい。法事には電話で呼んで来てもらうのだそうです。

イズタガの海行ってきました

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本文はここから
伊豆多賀も今はもう熱海市
熱海市が熱海の海水浴場のような
銀杏の葉のかたちの防波堤を造成中で
もう2,3年かけているけれど
まだ出来あがらない。
でも知られていないから人もすくなく
まあまあの透明度で
出かけた8月7日は
風もなくおだやかな波また波
ただ浮輪に掴まって浮かんでいた。
古くからある長浜苑の後ろの竹林が
黄緑色に波打っていたのを
づーと眺めながら水に浮かんでいました。



大洋丸乗船者、大橋光吉と広橋百合子

○大正14年4月2日、博文館 専務取締役 大橋光吉は、

欧米各国の印刷業視察と、新鋭の機械購入の為に、

横浜 を東洋汽船 大洋丸 で出発して先ず米国 に向かった。

(「博文館 五十年史」博文館  1937 p297)


*またまた、坂本さんが大洋丸 記事をご報知。

博文館 五十史」(坪谷善四郎 )は早大 (ネ1-3823)に

ありますが、大洋丸 記事が掲載されているとは、

知りませんでした、見にゆきます。ありがとうございました。

大洋丸 調査の私の関心は、こうして突然博文館 史のうち

にも大洋丸 が出てくることを知ったり、大橋光吉という人物

がどんな人物かについて、そこここを見るついでに、

ほかにも関心のある箇所を、あちこちと読んで、

大久保さんなどによって教えられた博文館 について、

さらに知ることになることを喜んでいます。


郷里 石川県 志賀町図書館 の例年農閑期2月の万葉講座

能登 を行く大伴家持 」に毎度出席の茶木さんから、葬儀

で行った奥さんの実家で見たアルバムに広橋百合 子の写真

が貼ってあったと電話があった。広橋は昭和 7年6月30

日から2週間、大洋丸 乗船者であった。田中英光 の「オリ

ンポスの果実」に出てくる大洋丸 船上でヒロイン「熊本 秋子」

のモデル相良八重とふたり女子走り高跳び選手でロサンジェルス

オリンピック に出場した。小説では「中村さん」である。

当時石川県 羽咋高等女学校 在学の16歳であった。

茶木さんはその羽咋高女が戦後、羽咋高校となったときの

生徒で、どうして奥さんの家のアルバムに広橋百合 子の

写真が2枚も貼ってあたのだろうか。

1枚はオリンピック で彼女が1米50を飛んでいる写真、

1枚は羽咋駅で町の人々に見送られている写真だそうである。


富岡多恵子「湖の南」文献探索類縁

<富岡多恵子「湖の南」類縁>

深井1:飯澤文夫さん編集「地方史情報082」2007.4の後記p44に「興味深く読んだ」とあったので富岡多恵子の「湖の南」を読んだ。岩波文庫の尾佐竹猛著「大津事件」が「援用されている」と書いてあったせいもある。尾佐竹は大審院判事、明治大学文科中興の人で、飯澤さんは明大図書館事務部長、明大尾佐竹猛研究会会員。尾佐竹は深井の郷里石川県志賀町出身者でもある。

深井2:富岡さんは、いつのまにか身辺に入り込んで来た大津事件を淡々と紹介しながら「大津事件」そのものも自分の目線で物語ってしまうのだが、飯澤さんが「よくもこんなに収集、翻刻されたもの」という樋爪修「大津市歴史博物館研究紀要11」発表の犯人津田三蔵書簡76通の全紹介でもある。富岡さんは「湖の南」巻末参考資料表に、この翻刻を挙げてはいるのが、どういう事情でこれを見られたのか一番知りたかったけれども、それについては書いていない。

深井2:飯澤さんの紹介を読んで今年3月発行の「湖の南」を江東区立図書館に予約、ようやく読めたのが6月10日、時の記念日だった。天智天皇製作の水時計を深井は大津の近江神社で見たことがある。10日はその漏刻祭で、近江神社では神楽が舞われる日、大津に縁のある日と思いながら一気に読了した。

深井3:以前読んだ吉村昭「ニコライ遭難」は津田の判決を巡る世間の騒動が中心だったのと対照的に「湖の南」では津田巡査に密着して、富岡さんの話は進む。事件の前に津田は「西南の役」に従軍していた。たまたま「文献探索2006」の全記事を批評された菖蒲和弘さんは、長らく「西南の役文献目録」の編纂者で、現在も増補改訂を続行中である。「湖の南」の津田三蔵従軍「西南の役」記事は、あまりに短く、菖蒲さんの目録に登載されるものとは思われないものの「文献探索2006」全記事批評の労に対する、お礼心から「西南の役」部分p38-46をコピーして菖蒲さんに送った。

菖蒲1:先日、所用から帰宅したら、深井人詩さんから封書が届いていた。何だろう、と思い封を切ったら、富岡多惠子著「湖の南」(平成19年3月、東京・新潮社刊)のコピーが同封されていた。それも、ロシア皇太子ニコライを切りつけた大津事件の津田三蔵が「西南の役」に従軍していた、というものであった。


菖蒲2:コピーの内容にも驚いたが、深井さんが、私が「西南の役文献目録」を改訂中だと知り送付されたものである。まず、そのことが何よりもうれしかった。


菖蒲3:今年は、「西南の役」130年である。しかし、どうしたわけか地元熊本県をはじめ宮崎・鹿児島県では今一つ盛り上がらない。熊本市がシンポジュムを計画している位である。120年までは、各種のイベントや記念出版などが見られたのだが、これも歴史の風化というものだろうか。 いずれにしても、目下、私編「西南の役文献目録」・「西南の役研究文献目録-雑誌記事索引」の刊行に向けて、最終校訂中である。一応、今年中の刊行を目指している。


菖蒲4:ところで、著者の富岡多惠子さんは残存した書簡から、津田三蔵と「西南の役」との関わりあいを色々な面から読み取っている。興味があるだけに、ぐいーっと引き付けられ、読んでいても面白かった。結局は、コピー部分だけでは分からないので、「湖の南」を本屋に注文することにした。


菖蒲5:おそらく、地方にいたら「湖の南」の存在を知ることは無かった、だろう。これも、「文献探索」のお蔭と感謝している。また、深井さんが同封された「主な参考資料」をもとに「西南の役」関係記事の探索を開始することにした。このように、一つの著書から探索・検索していくと、色々なことが芋蔓式に判明してくる。中には、思いがけない大発見すらある。


菖蒲6:飯澤さん編集「地方史情報082」2007.4p44後記は私自身、読んでいた。しかし「西南の役」に関しては記述が無かったので目に留めなかった。